戦争の記憶 2

針尾無線塔を内部から見上げると、時の流れが止まっているように感じる=佐世保市針尾中町

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戦争の記憶 2 針尾無線塔 開戦も終戦も伝えた

2005/04/19 掲載

戦争の記憶 2

針尾無線塔を内部から見上げると、時の流れが止まっているように感じる=佐世保市針尾中町

針尾無線塔 開戦も終戦も伝えた

終戦後、村上年さん(68)=東京都在住=は、大陸から佐世保港の浦頭に向かう引き揚げ船の上で三本の巨塔を眺めた。旧逓信省技官だった父が隣で目頭をぬぐっていた。「父は塔の設計管理にかかわったので感慨深かったのだろう。たる詰めしたセメント(重さ百九十キロ強)を作業員が担いで運んだことなど、建造時の苦労を話してくれたよ」

旧日本海軍が一九一八(大正七)年から四年かけて造った針尾無線塔。最も高いもので百三十七メートル。基部の直径は約十二メートルもある。当時、無線は中短波になる前の長波の時代。電波をより遠くに飛ばすため、これだけ高くなった。工事中には転落などで三人が犠牲となった、と記録にはある。

旧海軍、海上保安庁と続けて敷地内の針尾送信所で働いた渡辺末雄さん(82)=佐世保市針尾中町=は「若いころ、頂上の電球を取り替えるため内部の階段を一気によじ登ると七分かかった」と懐かしむ。退職後も塔のそばで暮らし、毎日見上げている。

かつてここから太平洋戦争開戦時の暗号「ニイタカヤマノボレ」が発信されたと伝わる。ただ、当時の通信記録を調べた防衛庁防衛研究所調査員の菊田愼典さんによると、正確にはこうだ。

暗号文は開戦六日前の四一年十二月二日、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電。広島県の呉通信隊から針尾など国内三つの送信所に分かれて海外に送られた。このうち針尾送信所は中国大陸や南太平洋の部隊に伝え、真珠湾を攻撃する機動部隊が受信したのは千葉県の船橋送信所を経由した電波だった―。

渡辺さんは勤務中に何度か米軍機の機銃掃射にさらされたと証言するが、針尾無線塔は爆撃による破壊を免れた。むしろ市街地の空襲に向かう米軍機には、格好の目標物になったようだ。「旧日本軍が送受信していた暗号は当時、既に米側に解読され、敗戦の一つの要因ともなった。米軍が塔をあえて破壊する理由はなかった」(菊田さん)

九七年、塔はその役割を終えた。法律上、不要になった国有施設は取り壊すのが原則。だが、あまりにも巨大で頑丈なため億単位の解体費用がかかり、処遇は決まっていない。海上保安庁から取得の意思を照会された佐世保市は耐久性などを理由に難色を示しているが、重要文化財指定による国の支援を引き出そうと、市教委が近く現況調査に乗り出す。

「貴重な歴史遺産を『平和のシンボル』として残すべきだ」。地元では一月、村上さんの友人らが保存会をつくり、撤去反対を掲げて署名活動や見学会を始めた。

終戦時には天皇による戦闘停止命令も暗号化して伝えた、と菊田さんはみている。開戦から終戦までを刻み続けた歴史の「証人」は、所在なく立ちすくんでいる。(佐世保支社・後藤敦)

針尾無線塔 高さ135-137メートルの3本が300メートル間隔で正三角形に並ぶ。壁面の厚さは76センチ。県教委が1998年にまとめた近代化遺産調査で「当時の鉄筋コンクリート構造物建設の最高技術を現在に伝える日本でも貴重な構造物」と報告された。1本の建設費用は30万円(当時)。