反核に生きて
 =秋月辰一郎の足跡= 4

「市民誰もが自由に参加できる場を」とスタートした「ながさき平和大集会」=1989年7月8日、長崎市内

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反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 4 草の根 思想超えた活動理念に

2005/10/27 掲載

反核に生きて
 =秋月辰一郎の足跡= 4

「市民誰もが自由に参加できる場を」とスタートした「ながさき平和大集会」=1989年7月8日、長崎市内

草の根 思想超えた活動理念に

秋月辰一郎が「反核の旅」から戻った翌年の一九八三年二月、主義主張の違いを超えた草の根の平和組織「長崎平和推進協会」が設立された。初代理事長に秋月、会長に当時の長崎市長、本島等が就き、約八百六十人が会員となった。

「小異を残して、大同につこう」―。設立時、事務局次長だった松永照正(78)=元長崎国際文化会館長=は秋月の言葉を思い起こす。「平和運動はイデオロギーが強いと言われていた時代。先生は『人間には多様性がある。その違いを認め、粘り強くそれぞれの平和意識を高めることが大切』とよく話していた」

被爆体験の継承、音楽、原爆写真調査など八つの部会活動(現在は四つ)や、秋月が呼び掛けた「平和問題懇談会」など、市民と平和運動の接点を増やす模索が続いた。

「私の頭も心も混乱します。分裂します。次々ともりだくさんな会がつくられるのに、とまどいを通りこしました」。秋月が被爆者問題の研究者である高橋眞司(長崎大教授)に送ったはがきには、協会設立当時の苦悩がこうつづられている。

その日付は、同協会の財団法人化を急いでいた「八三年十二月一日」。高橋は「ストレートに突き進んだわけではなく、常に一つの事柄を反芻(はんすう)しながら、深い思索を重ねていた」と秋月の繊細さを振り返る。

「平和運動は金太郎あめ」―。秋月の口癖だった。「集会などに出てくるのは同じ顔。世界が記憶すべき長崎の歴史なのに、運動が広がらない状況を嘆いておられた」(松永)

時代は、原水禁運動の分裂などを引き金に、市民が平和運動から遠ざかっていた。秋月は協会活動にとどまらず、「市民誰もが自由に参加できる場」を目指した。冷戦を象徴した「ベルリンの壁」が崩壊する直前の八九年七月、「ながさき平和大集会」が生まれた。

児童劇団を主宰する津田桂子(59)=長崎市=は秋月に誘われ、同協会や大集会に加わった。「胎内被爆者で、平和をアピールしたいという思いはあっても一個人ではなかなかできない。そんなとき、秋月先生は『ちょっと出てこんね』と気さくに声を掛けてくれた」

津田は八三年から、同協会の「国連軍縮週間市民のつどい」で朗読劇などの企画にかかわる。「声高に叫ばなくても、音楽や演劇を通じて平和への思いを抱くことができる、と秋月先生から学んだ」

ここ数年、イラク戦争や有事法制制定をめぐる市民運動をめぐり、被爆者や市民と同協会事務局の対立が続く。大集会の会場も空席が目立つ。

「考え方の違いを超えて手を結ぼうと秋月先生は呼び掛けた。原点に立ち返るべきだ」。松永は今、秋月の言葉をかみしめる。(文中敬称略)