告 白 声なき声記録し語る
「先生は『どんなささいなことでも記録し、語らなければならない』と話された。証言活動の顔でした」
秋月辰一郎が会長(一九七八―八六)を務めた「長崎の証言の会」の草創期を知る同会の鎌田信子(72)は、記憶をたどりながら語る。
鎌田の夫で同会代表委員の定夫(二〇〇二年死去)たちは六八年、国の被爆者調査報告と被爆者の実相がかけ離れていることに憤慨。市民有志で独自調査に乗り出し、そして、次々に明らかになる被爆体験を記録する必要性を説いて回った。
「(鎌田さんとは)一度も面識はなかったのですが、(秋月の)『長崎原爆記』を読んでの呼び掛けでした」。鎌田らの行動について、秋月の妻すが子は本紙連載「夏雲の丘」でそう語っている。秋月も同じ年、東京で開かれた原爆展で長崎に関する資料がないことに衝撃を受けていた。「(鎌田さんの)計画への参加を即座に決めたのはいうまでもありません」(同連載)
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鎌田らは六九年、「長崎の証言」を創刊。秋月は十七人の代表委員の一人として「原爆被爆の実体を語ることこそ私たちの義務」と題する一文を創刊号に寄せた。
「私たち長崎の人々は長崎の体験を余り語らなさすぎるのである。語ることは人間に対して人類に対しての義務である」
秋月や鎌田らの手でこうして始まった証言活動は、被爆者自身が歴史にかかわる存在へと変容する大きな契機となった。
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証言活動に突き進む一方で秋月がぶつかったのが、爆心の直下に暮らし死んでいった人たちの声なき声だった。「幾万とも十数万ともいえる死者の声こそ核兵器禁止、世界平和につながる」。秋月はそう唱え、爆心直下の山里町の住民を訪ね歩いた。「爆心地復元運動」の始まりだった。
その動きに呼応し、市も七一年に調査委員会を発足させ、秋月は副委員長に就いた。調査では、爆心地から二キロ以内にあったと推定される約一万千三百世帯のうち、約一万四百世帯の被災状況が判明した。
「行政と市民運動が両輪となって、生き残った住民の記憶をたどり、被爆前の町並みを追跡した。今では考えられない運動で、秋月先生でなければ市民と行政の橋渡しはできなかった」。当時、松山町の復元運動の推進役となった「証言の会」代表委員の内田伯(75)はこう振り返る。
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秋月は七三年、原爆被害の概要をまとめる「長崎原爆戦災誌」の刊行を市に働き掛けた中心でもあった。戦災誌第四巻には、秋月が「原爆の社会生活への影響」を論考した文章が掲載されている。
証言活動、爆心地復元運動、そして戦災誌刊行―。「被爆原点の空白を埋めよう」との秋月の信念に貫かれていた。
(文中敬称略)