遺族の願い すべての被爆者救済を
「五十歳の若さで松葉杖(づえ)に頼らなければ道を歩けない。韓国の医者では治療できない。貧しさに追いまくられて、どうすることもできません。日本には原爆被害者を救う法律があって、すべての人が恩恵に預かれると聞いています」(「長崎の証言第八集」から)
この嘆願書が長崎に届いたのは、三十年前の一九七五年九月。現在、健康管理手当の海外申請をめぐる訴訟の原告だった崔季〓さんの三女貞愛さんがしたためたものだ。
崔さんと長崎。そのかかわりは長く、深い。
職を求めて十五歳で日本に渡り、長崎原爆の投下翌日、焼け野原と化した爆心地近くに入った。韓国に戻り、原因不明の足腰の痛みに苦しんだ。生計を支えるため、貞愛さんら娘は学校をやめた。
嘆願書には病気と貧困にあえぐ韓国人被爆者の窮状が書かれていた。
「崔さん被爆裏付け 大村時代の雇用主が証言」(七六年九月二十九日)「崔さんの悲願実る 被爆者手帳を交付」(七六年十二月二十九日)「崔さん元気に退院 歩けてうれしい」(七七年七月九日)
崔さんの入市被爆の証明や被爆者健康手帳の交付、壊死(えし)した股(こ)関節に人工関節を埋め込む手術の成功―。当時の長崎新聞は一年余り、崔さんの様子を詳しく報じた。
帰国後数年たって、手術した股関節の痛みが再発。再び来日できる体力も経済的な余裕もなく、年々衰えていった。長崎との縁が遠のいていた八〇年代後半、県被爆二世教職員の会の訪韓調査で、体の痛みと貧困に苦しむ崔さんがいた。
「日本で手術を受けるよう何度も勧めたが、家族の事情もあり無理は言えなかった」。同会の平野伸人会長(58)は当時を振り返る。
日本を出国した在外被爆者への手当支給が始まった二年前、平野さんらは長崎までの移送手段などを練りに練った。「最後は崔さんが首を横に振った。それでも何とか救いたくて…」
「来日要件」の壁を知りつつ、平野さんは昨年一月、韓国から長崎市に手当申請をするよう勧めた。結果は予想通り「却下」。可否は司法の場に持ち込まれたが、崔さんは長崎地裁の勝訴判決を聞くことなく昨年七月、七十八歳で逝った。
裁判は遺族が引き継いだ。長崎、福岡で弁論があるたび、六女の美淑さん(40)が遺族を代表して高速船で海を渡ってくる。「厚生大臣閣下、父に救援の手を」―。遺族の願いは、三十年前の嘆願書の題名そのままだ。
苦しみぬいて死んだ父親の姿を寝たきりの韓国の被爆者に重ね、遺族らは高裁勝訴判決を待つ。
【編注】崔季〓さんの〓は「徹」の「ぎょうにんべん」を「さんずい」