宮内雪夫会長 (佐世保戦没者釜墓地護持会) 遺族捜し、終わらぬ戦後
「ここに眠る人は家に帰れず、家族にも会えなかった。戦後の実感もないだろう。遺族捜しが続く限り戦後は終わらない」。佐世保戦没者釜墓地護持会の宮内雪夫会長(72)はこう語る。
佐世保市の針尾島。ハウステンボスと米軍針尾住宅の間にひっそりとある釜墓地。慰霊碑の下には太平洋戦争後、フィリピン最大の日本人収容所カンルバンや引き揚げ途中で亡くなった六千余人の遺骨が眠る。護持会が毎年七月に開く慰霊祭には県内や九州のほか東北、北陸からも遺族が訪れる。だが、その存在はあまり知られていない。
■帰らぬ遺骨
一九四九年一月九日、フィリピン・マニラから最後の引き揚げ船「ぼごだ丸」が佐世保市針尾北町の浦頭港に入港。軍人・軍属四千五百十五人の遺体と、ニューギニアで亡くなった軍人三百七人の遺骨が運ばれ、引き揚げ途中で亡くなった身元不明の約二千人の遺体とともに釜地区で荼毘(だび)に付された。
米軍はローマ字と英語で書かれた四千八百二十二人分の名簿を添え、「すべての遺骨を確実に遺族に届けるよう」指示。厚生省=当時=の記録によると、名前が判明していた四千二百六十八人のうち四千百八十六人については遺族に遺骨の一部を引き渡した。遺族が不明だった八十二人と名前が分からなかった五百五十四人の遺骨は東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑に納めたという。
だが、護持会の調べでは、「厚生省から木箱が届けられたが、中には何も入っていなかった」と、遺骨が帰っていないことを訴える遺族は少なくない。護持会が遺族と連絡を取れたのはこれまで計五百二十四人分にすぎない。「父はどこで死に、遺骨はどこにあるのか。日本に帰ってきていることさえ知らない人もいる」と宮内会長。
■司令官参列
護持会は戦後六十年の今年、米海軍佐世保基地司令官に初めて慰霊祭への参列を呼び掛けた。司令官は献花し、感謝の意を表したという。「かつての敵味方が傷を癒やし合った。意義深かった」と宮内会長は胸を張る。次代を担う地元の小、中、高生も加わり不戦の誓いを新たにした。
護持会は今年、永久保存名簿を作成。二人の身元とその遺族も判明した。遺族の一人で日本遺族会に勤めていた青木明夫さん(61)=埼玉県=は釜墓地の存在を昨年まで知らなかった。父の遺骨は一部帰ってきていたが、慰霊祭に参加し「父が眠る地の土も持ち帰りたい」と思ったという。
ボランティアで活動を続ける護持会。遺族の高齢化は進む。「存命中にここで再会してほしい。私たちの願いは、数千人という遺骨名簿を遺族に見てもらう。ただそれだけ」。地道な遺族捜しが続く。