山口 彊さん(89) =長崎市布巻町= 二重被爆 「それでも生きている」
顔と両腕を包帯でぐるぐる巻きにして出張先の広島から戻った姿に、造船所の同僚たちは目を丸くした。
「ものすごい熱と爆風で、建物は残らず倒れて焼けた」「人がそこら中で死んでいる」「窓は開けておいた方がいい、ガラスが割れて飛んでくるんだ」―。三日前の惨状を懸命に説明した。
だが、上司の一人は「広島のような大きな街がたった一発で壊滅するはずがない」と、信じない。
反論しようとした瞬間、閃光(せんこう)が事務所を包んだ。あの爆弾だ―。反射的に机の下に飛び込んだ。爆発音に続いて爆風が室内を駆け抜けた。
散乱した机やいすをかき分けて飛び出した。事務所裏の岩山をよじ登ると、監視塔の若い監視員が真っ赤に焼けて倒れている。浦上の空にきのこ雲がわき上がり、市街地が炎と煙を上げていた。
広島と同じだった。
三菱長崎造船所の艤装(ぎそう)設計課に勤務。設計の応援のため、広島の造船所に五月、後輩二人と八月七日まで三カ月の予定で赴任した。六日の朝は早く目が覚めた。あすは妻と赤ん坊の待つ長崎に帰れる。
市電を終点で降り、職場への道を歩いていてB29の爆音を聞いた。見上げると、白い落下傘が二つ落ちてくる。と、真っ白な火球がさく裂した。
あ、と思うと爆風に吹き飛ばされ、気が遠くなった。爆心地から約三キロ。じりじりした痛みで意識が戻った。髪に火がつき、体の左半分はベロリと大やけどをしていた。足は何とか動く。造船所を目指して歩きだした。
道路脇には遺体の山ができた。川に流れる遺体は、人間で作った筏(いかだ)のように見えた。放心状態で歩く負傷者の群れと何度も擦れ違う。翌日、救援列車に飛び乗ると、すぐに意識を失った。長崎には八日の昼近くに帰り着いた。
◇
二回の原爆を二回とも体験した「二重被爆者」だ。広島で死んでも、長崎で死んでもおかしくなかった。それでも今、生きている。運が悪いのか、強運なのか―。答えは出ない。
生後八カ月で被爆した長男が今年二月、還暦を目の前にがんで逝(い)った。若年被爆者ほどがんのリスクが大きい―という研究結果を数カ月後、新聞で目にした。ああ、これか。「親より早く死んだらいかん」―それから口癖になった。
六日。八時十五分。サイレンが鳴った。広島の惨状が浮かぶ。自宅で目を閉じ、静かに手を合わせた。