吉田孝子さん(78) =長崎市魚の町= 浦上天主堂 「父ちゃん、この指、見つけて」
「父ちゃん、この指、見つけて」
爆風で倒れた家の下敷きになり、助け出された時は夕方だった。
沈みかけた赤い太陽が美しい。
夕日に映える浦上天主堂の赤れんがを見ようと目を向けた。だが、あるはずの場所にその威容はない。
五、六本の黒焦げの木が、幹だけになって立っていた。
◇
爆心地から七百メートル、天主堂の裏手にあった上野町の自宅の台所で昼ご飯の支度をしていた。ガラス戸越しに白い光が見えた瞬間、地面に伏せた。気が付くと、うつぶせのまま、何かに押さえつけられ、少しも動くことができなかった。
「孝子、どこにおるとね」「生きとらんかもしれん」。自宅の敷地内にいたらしい両親の声が聞こえる。
「うちは生きとっとよ」。誰も気付かない。あっ、右手が動く。ゆっくり腕を伸ばすと、ほんの少し中指が外に出た。
「父ちゃん、この指、見つけて」
祈りは通じた。父と知人が体を覆っていた屋根瓦や壁、階段のはしご、腰に乗っていた二本の梁(はり)を取り除いてくれた。だが、左足がねじれ、押しつぶされていた。飛び上がるほど痛かった。
二日後、親類の家がある琴海に向かった。リヤカーに揺られていると、天主堂横の川に教会塔の上にあった丸いドームがすっぽり崩れ落ちているのが見えた。「何ということだ」。絶望感に包まれた。
一緒に暮らしていた母、祖父、父は原爆投下から十日ほどでみんな死んだ。兄もその一年前、ビルマで戦死した。十八歳の夏、ひとりぼっちになった。
◇
手当てが遅かったせいか、足を引きずる生活を余儀なくされた。原爆から七年後に結婚、三人の子どもに恵まれた。夫の転勤で九州を転々とした後、長崎に戻り、語り部活動を始めた。
年を重ねるにつれ、足は動きにくくなった。約二十年前から外出にはつえが欠かせない。語り部活動も年十回ほどに減ったが、つえは二本に増えた。
六十年目の夏、かなえたい願いが一つある。八月九日の平和祈念式典で一番前の席に座り、「六十年生かしてくれてありがとう」と天国の両親に伝えようと思う。
二本のつえで体を支え、朝早く会場に出向くつもりだ。