出口輝夫さん(69) =長崎市かき道4丁目= 本原の高台 畑は焼け、炎上げる市街地
爆心地から北に一・四キロ。当時住んでいた長崎市扇町(当時は同市本原一丁目)の高台を歩く。終戦後は別の土地に移り、あいさつか何かで一度訪れたきりだ。
「あのころのままかもしれない」。古びた石垣を触りながら、遠い記憶をたどる。
倒壊した家から、やっとの思いではい出すと、南斜面に広がる畑が黒く焼けていた。その向こうに、残らずつぶれて炎と煙を上げる市街地が見える。
国民学校の三年生、九歳の夏。あの日の光景はいまだに鮮明だ。
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「警報が解除になるまで出掛けたらいかんよ」
外出をいさめる母親の言葉に従い、部屋で本を読んでいた。突然、飛行機の急降下音が聞こえ、庭の松の木の根元に閃光(せんこう)が走った。目の前が一瞬、からし色に染まり、すぐにすべてがピンクに変わって見えた。
逃げよう。立ち上がった瞬間、吹き飛ばされ、風呂場の壁にたたきつけられた。何か刺さったらしく、背中が奇妙に熱い。頭にも大けがをしていたが、命は助かった。だが、一番けがが軽く、元気に片付けに動き回っていた真ん中の兄は一カ月後に死んだ。
大学を卒業し、就職で長崎を離れても「原爆」はつきまとった。最初に勤めた外資系の事務機器会社でも、次の会社でも、仕事は同僚に負けなかった。だが時折、猛烈な疲労感に襲われ、季節の変わり目には必ず古傷が痛む。有給休暇の取得が多い―そんな理由で昇進には「待った」がかかった。
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退職後は、坂本龍馬の研究をして過ごそうと考えていた。だが「被爆体験を語り継がなければ」と義弟の元小学校教諭に説得された。人前で話すのは苦手だ。抵抗したが、最後には折れた。
体験を語り始めると、子どもたちの率直な質問にしばしば返答に詰まった。「自分は、原爆を何にも知らない」。核爆発のメカニズム、開発の歩み、投下までの経過、被災状況―あらゆる角度から原爆を調べ上げた。今春、自費出版した「知っているようで知らない原爆の話」は九年がかりの労作だ。
「爆風の強さは、爆心地から一キロの場所で秒速百六十メートル。想像してごらん、西武の松坂投手の速球の四倍の速さで瓦や石や割れたガラスが飛んでくる」。身近な表現を選びながら核兵器の恐怖を語る。
黙り込んで聞き入る子どもたちの表情に、高台に立ち尽くした「あの日」の自分が重なる。