岩松博泰さん(73) =長崎市女の都3丁目= 浦上川の燃える橋 「進めない」押し寄せるけが人
「線路は大丈夫か」
「おい、行くぞ」
区長の声を合図に作業用のモーターカーで飛び出した。長与駅の構内で突如閃光(せんこう)を浴び、首に巻いたタオルと帽子が爆風で飛ばされてから、一時間もたっていなかった。保線区員として、空襲が終わるたびに鉄道レールの点検に走り回る毎日。「あの日」もそんな”日常”と思っていた。
長与を出て間もなく、異変に気付いた。すれ違う人の服がどれもずたずたに破れ、髪はちりちりに焦げている。「いつもの空襲とは違う」。学徒動員の十三歳の目には、死の行進のように見えた。
長崎に近づいているのに建物がない。代わりに目に飛び込んできたのは、がれきの山、折れ曲がった電柱、吹き飛ばされた瓦、路上に倒れた人たち。街は消えていた。
「行けるところまで行こう」。区長の声に従いモーターカーを進める。「徐行、徐行」―。車が止まるたびに線路に飛び降り、散乱したがれきを取り除いた。
大橋の手前。浦上川に架かる橋の枕木が燃えていた。「もう進めない」。その瞬間、止まったモーターカーにけが人が押し寄せてきた。
車の上から小柄な体を伸ばしけが人を引き上げると、皮膚がズルリとむけた。車から降りて抱え上げ、十数人を乗せて道ノ尾駅に戻った。
多くの負傷者を諫早市などの病院に運んだ救援列車が走り始めたのは、それから数時間後のことだった。
◇
戦後、国鉄に採用され、国労で平和運動に加わった。核兵器廃絶を目指す非政府組織(NGO)が集う「国連軍縮特別総会」(一九七八年)の代表団として渡米した。
米国民は当時、原爆のことを「少し威力の強い爆弾」としか考えておらず、変わり果てた街の写真を示すと顔色が変わった。核兵器廃絶運動の積み重ねを信じ、反核運動に没頭した。
◇
翌日だったか、翌々日だったか思い出せない。竹岩踏切(現在の長崎市川口町)の警手だった母は、踏切そばの官舎で弟を胸に抱いて息絶えていた。それぞれ外出先で原爆に遭ったはずの姉と兄の消息は途絶えたままだ。
年を重ねるにつれ、運動からも、踏切からも遠ざかった。だが、今年の八月九日は踏切に行く。母と弟、そして多くの犠牲者に線香を手向けよう。
踏切の向こうに、「あの日」進めなかった大橋が見える。