脚本家(諫早市出身) 市川森一さん(64) 平和こそ命懸けで守る
「あの日」から六十年目の夏。古里を遠く離れて暮らす本県出身者にも原爆の悲惨な記憶と不戦の誓いは脈々と受け継がれている。感性豊かなまなざしで被爆地を見詰め直す人も少なくない。県外で平和へのメッセージを発信する著名な本県出身者に「8・9」に寄せる思いを聞いた。初回は、脚本家の市川森一さん。
「あの日」から六十年目の夏。古里を遠く離れて暮らす本県出身者にも原爆の悲惨な記憶と不戦の誓いは脈々と受け継がれている。感性豊かなまなざしで被爆地を見詰め直す人も少なくない。県外で平和へのメッセージを発信する著名な本県出身者に「8・9」に寄せる思いを聞いた。初回は、脚本家の市川森一さん。
―原爆の記憶を。
太平洋戦争開戦の年に生まれ、幼児期は戦時下にあった。終戦近くに、諫早の商店街から郊外の長田の農家に疎開した。当時は四歳で記憶は飛び飛びだ。
夏の暑い日に農家の庭先で遊んでいたら、空の向こうに赤い雲が盛り上がっているのが見えた。それをじーっと見詰めた記憶がある。子ども心にも気持ちの悪いものを見たという感じがあった。
それから、疎開先の隣家の主人が全身を包帯で巻かれた姿で遺体となって運び込まれ、簡素な葬式があった。後で聞いたら、その人は国鉄の機関手で、列車が長崎に入ったとき、ちょうど原爆に遭ったという。
次の記憶は、戦争が終わって疎開先から帰るという時。農家のおばあちゃんが、お土産にカボチャを持って行けと言う。畑に行って、おばあちゃんがカボチャの茎をプツンと切った時、茎のにおいが私を包み込んだ。その時のにおいが忘れられない。いわば、四歳で初めて知った平和のにおいだった。
―その体験は、作品にどう結びついたか。
直接被爆したわけではないが、きのこ雲の目撃者として証言していかなければならないとの思いは持ち続けた。長崎人としての使命感を持って書いた脚本が「明日」。
これは、井上光晴さんの原作で、一九八八(昭和六十三)年の八月九日にテレビで放映された。大竹しのぶさん、樹木希林さんらが出演した。
原爆が投下される前日、長崎で暮らす庶民を描いた。八月九日にツル子という女性が子どもを出産し希望にあふれた直後、原爆に遭い、家族が一人残らず死んでしまう。人間の最大の罪は、多くの人々の希望を踏みにじること。アメリカの原爆投下に対する憤りを強く訴えかけたドラマだ。
―被爆六十年で思うことを。
終戦後は、二度と戦争はごめんだという声が強く、私たちも新しい平和な日本を担う者としての自覚を持ってきた。だが、現在は平和の大切さに対する自覚を、教育を含め社会全体が失いつつあるという危機感がある。高い代償を払って得た平和を、永久に守り通していかなければならないという思いは強い。
何もせず黙っていて平和は続かない。平和は、ある意味で、戦争よりも命懸けで守ろうとしなければ、守り通せるものではないと思う。
「昭和二十年八月九日、四時十七分、私の子供がここにいる。ここに…私の横に、形あるもんとしていることが信じられんです。髪の毛、二つの耳、小さな目鼻とよう動く口を持ったこん子。…私の子供は、今日から生きる(!)」(市川森一脚本「明日」より。原爆投下直前に出産したツル子のせりふ)長崎原爆の投下前日を描いた「明日」を収めた市川さんの脚本集