届け世界へ
 =被爆ノート英訳プロジェクト= 2

松尾幸子さん(左)に被爆当時のことを質問する平和学習部の生徒=2月16日、活水高

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届け世界へ =被爆ノート英訳プロジェクト= 2 行間の思い 直接聞いて背景学ぶ

2005/07/17 掲載

届け世界へ
 =被爆ノート英訳プロジェクト= 2

松尾幸子さん(左)に被爆当時のことを質問する平和学習部の生徒=2月16日、活水高

行間の思い 直接聞いて背景学ぶ

二月中旬、英訳に取り組む活水高(長崎市宝栄町)の平和学習部は、被爆体験記の当事者である松尾幸子さん(71)=同市本原町=を放課後の教室に招いた。原爆投下当時の状況や心境を聞き取るためだった。

松尾さんは快く学校まで足を運んでくれ、孫ほど年の離れた生徒たちと向き合った。

当時の生活習慣

「警防団って何ですか」。平湯あゆみさん(当時二年)が、こう切り出した。

「それはね、地域の安全を守る警察みたいなものでね。どこの町にもあったんですよ。私の父も兄も入っていて、警報が鳴ると詰め所に行き、避難するようみんなに指示していました」。松尾さんは当時の生活習慣を交えながら、丁寧に説明した。

英訳はまず、被爆体験記をしっかり読んでもらう。そして体験記の「行間」に漂う被爆者の思いをすくい取るため、被爆者と接点を持ってもらう―。このプロジェクトには、そんな狙いがある。

「八月八日、長崎は火の海」と書かれたビラを見た父親から山へ逃げるように言われ、松尾さんら姉弟と母親は九日の朝、岩屋山に向かった。大橋町の自宅に残っていた姉と叔母は即死、警防団の詰め所にいた父は八月二十八日に、二人の兄はどこで死んだのか分からない。

「どうしてお姉さんは山に登らなかったのですか」(生徒)

「あの時代、空襲で家に火がついたら、自分たちで消さないといけず、家を空けられなかったんですよ」(松尾さん)

「原爆が落ちた後、どんな気持ちだったのですか」(生徒)

「よく分からないけど、とても冷めた気持ちで、その場に立っているのが精いっぱいでした」(松尾さん)

会えてよかった

平和学習部の生徒は、原爆や平和問題を積極的に学ぶ長崎市でも珍しい存在。それでも、松尾さんの話には、今まで知らなかった戦争中の庶民生活や家族を奪った原爆の悲惨な現実があった。

「何も知らないまま、文章だけを訳さずによかった。短い文章の中から、戦争中のいろんなことが少しずつ分かってきた」。部長の大野真由子さん(現大学一年)は、学校を後にする松尾さんの背中をいつまでも見詰めた。