原爆を歩く
 =碑巡り案内= 4

社員らの冥福を祈って建てられた「電鉄原爆殉難者」 =長崎市平野町

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原爆を歩く =碑巡り案内= 4 電鉄原爆殉難者 (長崎市平野町、1987年4月建立) ◆ 「少女車掌」も犠牲に

2005/07/08 掲載

原爆を歩く
 =碑巡り案内= 4

社員らの冥福を祈って建てられた「電鉄原爆殉難者」 =長崎市平野町

電鉄原爆殉難者 (長崎市平野町、1987年4月建立) ◆ 「少女車掌」も犠牲に

爆心地公園(長崎市松山町)の近く。市内を運行する路面電車が見える国道沿いに、被爆した電車の車輪やレール、ホームの縁石などで造られた慰霊碑がひっそりたたずむ。

「電鉄原爆殉難者」の碑は、長崎電気軌道のOBらでつくる「長崎電鉄八月九日の会」(和田耕一会長)が建立。路面電車で被爆し、犠牲になった社員や動員学徒ら百十七人を悼み、保存してあった車輪などを使用して一九八七年春完成した。

太平洋戦争末期、十―二十歳代の動員学徒や女子挺身(ていしん)隊が次々入社。戦時体制の中、四四年三月には男子車掌禁止令が出るなどしたため、女子の車掌や運転士が活躍した。

「あの日」―。車内でハンドルを握りしめ、車掌かばんを抱いたまま多くの乗客とともに、若い社員の命が奪われた。中には車掌を務めていた十二歳の少女もいたという。

語り部として精力的に活動する和田会長は「慰霊碑の前に立つと、当時のことを自然と思い出す。この世に核兵器が存在する限り、被爆の実相や真実を伝え続けたい」と語る。