前 へ 山本勝美さん、文代さん 一般参加者 ◆ 戦死した父の痛み重ね
東彼東彼杵町の約十二キロを移動した県内最終日の五日の昼食。佐賀県境へ向かう心臓破りの約五キロの峠道を前に、コンビニのおにぎりとぼたもちをほお張る夫婦がいた。北松江迎町から参加した団体職員の山本勝美さん(65)と文代さん(61)。長崎―広島の全行程踏破に挑む一般市民だ。
「広島まで歩こうと思うんだけど。どう思う?」。六月上旬のある日、石碑の引き手を呼び掛ける新聞記事を握り締め、勝美さんは文代さんに突然切り出した。
「あら、そう。行ってらっしゃい」。文代さんは何げなくそう返したが内心驚いた。何でも事を決めてから話す性分は三十九年連れ添って分かっている。今回も”相談”ではない。必ず行く気だ。「しかし、なぜ?」
原爆、戦争、追悼―。これまでの日常生活の中で、どちらかといえば記事の向こう側にあった。被爆者ではない。平和運動をしているわけでもない。「カメラ好きの、日課で一万歩を歩くウオーキングおじさんだったはず」
勝美さんは「親父が味わった戦争の痛みを、六百キロ歩くつらさに重ねたい」と語り始めた。軍人だった父親の十三郎さんは、太平洋戦争の中、青年学校の指導員としてビルマ(現ミャンマー)に赴き、その後各地を転戦。一九四四年九月、中国雲南省で戦死した。三十歳だった。
家庭のこと、仕事のこと、男として…。相談したいことは山ほどあった。一度は頼ってみたかった。「この一歩一歩をおやじの心境に近づく歩みにしたい。そして、いつか必ず中国に行く」
文代さんはハッとした。「口には出さなかったけど、この人の心にはいつも父親がいたんだ」。夫の思いを手伝いたい―。コーラス仲間に「しばらく行けそうにない」と伝えた。
曲がりくねった峠越えは、県内行程で初めて激しい雨になった。「こんな日もありますよ。カンカン照りもあるでしょう。でも、おやじは戦地でもっとつらかっただろうな。遠い祖国にいる私や母のことを思いながら戦ったんでしょう」。勝美さんは引く手に力を込めた。
午後二時。石碑は佐賀県の支援者に無事に引き継がれた。だが、山本さん夫婦にとって県内行程の終わりは「次の始まり」。これからも毎日石碑を引き、米国の参加者や各県の支援者と交流を重ねて旅は続く。「このつらさが平和なんだ」とかみしめながら。