奥村英二さん 原子雲の下の真実を
「これが飛行機の進歩の到達点だ―と言わんばかりに、原子雲の写真が飾られていたんです」
長崎の市民団体「核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会」の代表団(十人)で団長を務める奥村英二さん(66)=元長崎地区労議長=。米国を訪れるのは十年ぶりだ。
一九九五年、被爆五十年の秋。奥村さんは所属労組の全国組織が企画した訪米団の一員として、ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館を訪ね、広島原爆の投下機「エノラ・ゲイ」の展示を視察した。
当初の計画では、エノラ・ゲイの機体と広島、長崎の被爆資料が一緒に並ぶはずだった。だが、資料展示の計画は米国の退役軍人や保守主義者らの猛反発を呼び、日米両国で議論を巻き起こした末に、中止を余儀なくされていた。
スミソニアンには「戦争の終期を早め、米国民の犠牲を抑えた」という米国の論理による原爆の”功績”だけが飾られていた。「投下機の九千メートル下の地上で何が起きたか、粘り強く訴え続けなければならない」。その時に感じた思いは、今も変わらない。
奥村英二さん
長崎原爆の投下から八日が過ぎた八月十七日、入市被爆した。当時六歳。「あの日」は、長崎市浪の平町の自宅を離れ、疎開先の諫早にいた。
「米軍の飛行機が落下傘のようなものを落とすのを、三つ上の兄と二階の窓から見た。閃光(せんこう)は諫早からも見えた。爆風で雨戸の戸袋が外れて落ちた。遠くに黒い煙が上がって、太陽がくすんだ変な色に見えた」
負傷者が諫早に次々と運ばれてくる。知り合いの大人から「長崎は全滅だ」と聞かされた。長崎に戻る途中で見た三菱長崎製鋼所の残がい、焼け跡にぽつんと残った長崎医科大付属病院の煙突。体にケロイドはなくても、記憶には鮮明に焼きついている。
一行は三十日に出発。五月一日、ニューヨークで非政府組織(NGO)主催の大規模反核集会に参加するほか、オハイオ州デイトンの米空軍博物館にも足を延ばし、長崎原爆の投下機「ボックス・カー」と対面する。
この飛行機がナガサキに何をもたらしたか―。あの国で、一人でも多くの人に伝えなければならない、と思う。「あと何年、元気でいられるか分からない。自分にとっては最後のチャンス」。奥村さんは、自分にそう言い聞かせながら、静かに決意をかみしめている。