谷口稜曄さん 核で人類は守れない
「この写真は私です。原爆の呪(のろ)われた傷あとがある私から、どうか目をそらさないで」
昨年四月二十六日、ニューヨークの国連本部地下会議室。谷口稜曄さん(76)=長崎原爆被災者協議会副会長=は、背中が真っ赤に焼けた少年の写真を握りしめていた。
核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会の関連集会。各国政府代表や世界各地から集まった反核非政府組織(NGO)を前に、谷口さんは風呂敷に包んだ写真を何度も取り出した。
熱線の威力を雄弁に物語る少年の背中。「見せたくて見せているのではない。六十年たっても、口で話しても分からない人がいるからだ。核政策を強硬に押し進める米国や核保有国に知ってほしいだけ」。写真の少年は、六十年前の自らの姿だった。
「あの日」。爆心から一・八キロ、自転車で郵便配達中、背後で原爆がさく裂した。左肩から手まで皮膚がたれ下がり、背中に手を回すと、焼けただれた黒いものがべっとり手に付いた。大やけどと気付いたのは、ずいぶん後のことだった。
「諫早、長与の救護所を転々と回され、長崎の新興善救護所でやっと治療らしい治療が受けられた」。だが、それから一年半、大村海軍病院のベッドでうつぶせのまま、苦痛の日々が続いた。
「痛みのあまり『もう殺してくれ』と何度も叫んだ。『この苦しみは誰にも分かるもんか』と思う半面、こんなに傷つけられても生きる使命を与えられてきた、とも思う」
退院後、当時の逓信省電報局に復職したが、定年退職まで「治療しながら仕事をする」生活を強いられた。「被爆者への援護は何もない時代。働かなければ食べていけなかった」
それから六十年。幾度となく海外に足を運び、言葉で、写真で、「あの日」を証言し続けた。「核兵器で人類を守ることはできない。まして、米国が世界を支配するなんてもってのほか」と語気を強める。
「これまでの活動でその気持ちが伝わったと思うか」と問うと、「伝えられたかもしれないし、そうでないかもしれない」と、遠くを見詰めた。
「ニューヨークに行くのはこれが最後かもしれない」。会議の行方に漂う暗雲、限りある自らの命。迫り来る不安と焦りを振り払うように、気持ちを奮い立たせる。「六十年前、長崎で起こった真実を伝えるために私は行く」
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核軍縮の行方を占うNPT再検討会議の開幕まで、二十日足らずとなった。会議に合わせ、長崎の被爆者や市民、若い世代約四十人が核兵器廃絶を願う”ナガサキの思い”を胸に、開催地のニューヨークに向かう。渡米準備を進める五人の表情を追った。