長崎原爆遺族会 下平作江さん 平和のため実相訴え
「閃光(せんこう)とともに気を失い、防空壕(ごう)の中で目を覚ますと、目や内臓が飛び出た人たちが『助けてください』と叫んでいた。悲痛な声がいつしか消えて、死臭が漂い始めた。六十年たつというのに、あのときの恐怖は一日たりとも忘れたことがない」
爆心地から約八百メートルの長崎市油木町で被爆。妹とともに防空壕に入っていて助かった。しかし、外にいた母と姉、兄は一瞬で亡くなった。原爆投下から十年後、身を寄せ合って生きてきた妹も自ら命を絶った。
「原爆で親と子のきずなまで奪われた。廃虚の中で、住む家も、食べ物も、着る物も何もない。その苦しみは言い表すことができない。核兵器は人間らしく生きることも死ぬことも奪う。安住を求め、死を選ぶしかなかった人がたくさんいた。そんな無念の上に現在の平和があることをかみしめてほしい」
自身の人生も病気との闘いだった。原因不明の脱毛、下痢、出血。三十歳を過ぎると子宮、卵巣、胆のうの手術を繰り返す。「生きていても、病気と放射能の恐怖が追い掛けてきた」と目を潤ませる。原爆症認定を求める集団訴訟の原告にも加わった。
下平作江さん
約三十年前から、修学旅行生に被爆体験を語る。被爆者援護法の制定を求める運動をはじめ、一九八二年の国連軍縮特別総会など海外にも出向くなど、被爆の実相を訴え続ける“ナガサキの顔”でもある。
「荒れた学校があってね。最初は『おばちゃん、何、話すねん』と耳を貸そうともしなかった生徒が、『母親のありがたみを感じた』と手紙を送ってきてくれる。それだけでもうれしくて」。被爆体験を通した自分の気持ちが相手の心に伝わることの喜びをこう語る。
「米国でね、原爆が二つ投下されたことを知らないで、広島の中に長崎という場所があると言った人がいた。原爆投下は六十年前の昔のこと、核兵器廃絶なんて関係ない、って言う人もいる。もどかしいけど、行動で訴え続けないとね」
十一時二分。長崎原爆資料館内に「千羽鶴」のメロディーが流れると、そっと目を閉じ、爆心地に向かって手を合わせる。
「今、本当に平和なのか、立ち止まって考えてほしい。過去を知り、現代を見詰め、平和な世界をつくってほしい。私たち被爆者はもうすぐいなくなるのだから」(聞き手は報道部・高比良由紀)
▽しもひら・さくえ 1935年生まれ。城山国民学校5年生の時に被爆、母と姉、兄を失った。長崎原爆遺族会会長。爆心地復元、被爆者援護法制定運動に尽力。長崎市在住。70歳。