「長崎の証言の会」 鎌田信子さん 終わりなき活動
原爆が投下された一九四五年八月九日、疎開先の静岡県三島にいた。三年後、家族とともに長崎に移り住んだ。被爆者ではない。
原水爆禁止運動は、五四年の米国のビキニ水爆実験を契機に高まりを見せ、長崎でも被爆者が自由を奪われた身体で重い口を開くようになった。
「あのころ、みんな黙っていたんです。それでも、『被爆者と非被爆者の間に健康と生活上の有意な差はない』とする旧厚生省の被爆者実態調査(六五年)の結果にはあぜんとさせられた。それはないだろうって」
いわゆる「原爆白書」は、二十年余り沈黙を続けてきた被爆者の怒りに火を付けた。すぐに、長崎の市民団体が被爆者実態調査を開始する。その中に、結婚後、長崎に移ってきたばかりの夫、鎌田定夫氏の姿があった。
「実態調査の自由記述欄には、生々しい証言がつづられていた。この声を埋もれさせてはいけない。被爆者の切なる訴えに背中を押されてきたと思うんです」
鎌田信子さん
この調査は、六九年八月の「長崎の証言」第一集発刊につながる。わずか四十四ページの薄い冊子は飛ぶように売れ、それまで被爆者の胸の内にしまわれてきた悲惨な原爆の実相を白日の下にさらす。それから三十五年、証言集は六十冊を超えた。
「私は被爆者ではないが、追体験というより、想像しながら自分も体験したような感覚がある。自分たちの手で歴史を明らかにするという思いもある。原爆被害に終わりはない。次の世代にも続き、拡大さえする」。ありのままの言葉で語られた被爆体験。読み返すとあらためて肌に突き刺さる。
最近、自らの文章で証言を書く人が減った。「皆さん、年を取り、亡くなっていった証しのよう。ただ、被爆二世、三世が親や祖父母の体験を語るのも証言の延長。記録の取り方も考える時期に差し掛かっている」と危ぐする。
長崎の平和運動をリードした定夫氏は三年前、この世を去った。研究室にある定夫氏の写真のそばには小さな花が絶えない。「六十年と言うけど、できることを愚直に続けるしかない。憲法や教育基本法の扱われ方を見ていると、大変な年になりそう。核の被害の実態を新しい世代に伝える証言活動に終わりはないんです」(聞き手は報道部・高比良由紀)
▽かまた のぶこ 1933年滋賀県生まれ。中学教諭を経て、短大助手を務める傍ら、夫の鎌田定夫氏と「長崎の証言の会」活動にかかわる。97年に設立した長崎平和研究所を拠点に原爆、平和問題の研究を続ける。長崎市在住。71歳。