芥川賞作家 青来有一さん 二世の使命感で
戦後六十年、被爆六十年の”節目の年”が明けた。今年、「ナガサキ」で何を描き、何を語り継ぎ、何を訴えるか―。被爆地でさまざまな活動に携わる六人に、新しい年への思いや決意を聞く。
「毎朝、職場へ通う道が『あの日』には焼け野原で、あちこちに遺体が転がっていた。ほとんど意識しないですよね。ずっと長崎に住んでいる人は余計にそうかもしれない。だけど、そこには重い歴史性を背負った人がいる。同じ長崎にいて、その歴史を忘れてしまうのは不幸だし、尊大なことだと思う」
原爆が炸裂したのはあの辺りだろうか―。通勤のバスが爆心地公園のそばに差し掛かると、何となく空を仰ぐことがある、という。過去を想起させる「場所の力」を感じる、と話す。
「東西冷戦の時代に比べれば、核戦争の危機はリアリティーを失っているかもしれない。しかし、究極の兵器として核が人間を脅かし続けている状況は変わらない。それを読み解く必要がある。人の営みの一つとして戦争があり、長崎が経験したジェノサイド(大量虐殺)がある。その記憶を伝えていかなければならない」
「ジェロニモの十字架」で文學界新人賞を受賞したのは、被爆五十周年の年だった。以来、幾つかの作品で、現代の家族に影を落とす「原爆」を描いてきた。現在は、連作短編の構想を進めている。
青来有一さん
「自分には、林京子さんのような、自らの過酷な経験に根差した話はもちろん書けない。だが、小説は、ただの虚構ではなく、言葉でつくり出したもう一つの現実だと思う。原爆の経験は何だったのか、今の姿から問い掛けていきたい。日常に覆われた中から、少しでも原爆の記憶を見いだしていきたいと思う」
被爆者を両親に持ち、小学校時代は城山小の被爆校舎で学んだ。高校も、大学も、職場も長崎。「出不精なのか、長崎どころか爆心地のある浦上からも離れたことがない」と笑う。
「『あの日』のことを身近に教えられた自分が、たまたま今、作家として世の中に何かを伝え、問うことができる立場にいる。原爆は、北海道でも東京でもない、長崎に育った被爆二世の自分が書くしかないと思う。節目だから、六十年だから、と意識するわけではないが、その使命感はあります」
▽せいらい・ゆういち 1958年、長崎市生まれ。長崎大卒。95年「ジェロニモの十字架」で文學界新人賞を受賞し、文壇デビュー。2001年「聖水」で第124回芥川賞を受賞。同市在住。46歳。