不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 4

大村市内に建てられた殉職者慰霊塔の前で、犠牲者をしのぶ神近義光さん=松並2丁目

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不戦の誓い =私の太平洋戦争= 4 空襲で散った若い命 第21海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会長 神近義光さん

2004/08/14 掲載

不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 4

大村市内に建てられた殉職者慰霊塔の前で、犠牲者をしのぶ神近義光さん=松並2丁目

空襲で散った若い命 第21海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会長 神近義光さん

戦時中、最大時で約百八十万平方メートルの敷地に約五万人が働き、東洋一と言われた航空機工場「第二一海軍航空廠(しょう)」が大村にあった。多くの若者が青春をささげて働き、亡くなっていった歴史は、地元からも忘れ去られようとしている。「戦争を二度としてはいけない」と子どもたちに伝えるためにも、古里の戦争の記憶を後世に語り継いでゆかねばならない。

私は当時、同航空廠で、建物の設計やエンジンの素材研究に従事していた。一九四四年十月二十五日、航空廠は米軍による大規模な空襲を受ける。現在の大村市立病院(同市古賀島町)付近にあった工場で見回りをしていた午前十時ごろ、空襲警報が鳴り響き、何十機ものB29爆撃機が上空に現れた。

無数の焼夷(しょうい)弾や爆弾が落とされ、周囲がたちまち燃え上がった。海に近い空き地で、ガソリンを貯蔵して置いてあったたくさんのドラム缶が爆発した。見上げるほどの火柱、ごう音とともに、ドラム缶が何十メートルも上空に吹き飛んだのを覚えている。

部下を指揮して消火に当たったが、すぐに手が付けられなくなり防空壕(ごう)に避難した。入り口付近に爆弾が落ち、けが人が出た。パニック状態になりながら、負傷者の手当てに追われた。

二時間の爆撃で、全体の建物の約半分が破壊され、それぞれ三百人前後の死者とけが人が出た。搬送した遺体やけが人の頭や体に、爆発で飛び散った爆弾の分厚い鉄板の切れ端が、刃のように突き刺さっていた様子が今も目に焼き付いている。

戦後、空襲犠牲者らを慰霊する殉職者慰霊塔奉賛会に加わった。同時に航空廠についての研究がほとんどされていないことを知り「歴史を埋もれさせたくない」との一心で資料の収集を始めた。九六年には市内に残る防空壕跡の撤去計画が持ち上がったが、所有者の国に保存を働き掛け、実現させた。

戦争中は国のため死にものぐるいで働くのは当然だったから悔いはない。だが、九州各地から動員されて同じように働き、空襲で死んでいった十代の男女がたくさんいたことを、忘れてはいけないと心から思う。

最近、若い世代の市民が航空廠の歴史の継承に乗り出してくれた。年老いた今、次代の取り組みに希望をつなぎたい。(大村)

かみちか・よしみつ 大村市出身。1941年10月の開設から第21海軍航空廠に勤務し、終戦後の残務処理まで携わった。現在は建築設計会社を経営。奉賛会では、空襲があった10月25日に毎年慰霊祭を開いている。同市諏訪2丁目。79歳。