個人の幸せ、尊厳奪われ 佐世保空襲犠牲者遺族会理事 下野孝子さん
一九四五(昭和二十)年六月二十八日午後十一時五十分すぎ、百四十一機ものB29爆撃機が市街地を襲った佐世保空襲。当時、十一歳。須佐町の高台に家族八人で暮らしていた。
「起きなさい」。母の叫び声で跳び起きると街は火の海。旧日本軍の軍事部第三課石油係に務めていた父は熊本に出張、長兄も徴兵され不在だった。焼夷(しょうい)弾の雨が降る中、母は一人で懸命に荷物をまとめていた。「お母さん一緒に逃げよう」と声を掛けたが「先に行きなさい」としか言わない。美容師だった母は仕事で腰を悪くしていた。心配だったが姉や兄、二人の弟とともに住居下の石垣に掘った防空壕(ごう)に逃げ、さらに山手の壕まで必死に避難した。
B29はごう音を響かせ上空を旋回、すり鉢状の市街地に波状攻撃を仕掛けていた。火柱と叫び声が各地で上がり、私は恐ろしくて声も出なかった。
爆撃は約二時間続いた。約百七十八万平方メートルが焼け野原となり、一万二千戸余りが焼失、約六万人が焼け出され、千二百二十五人(遺族会調査)の尊い命が奪われた。
翌日、須佐町の広場には黒焦げの遺体が山積みされ、自宅は空襲で焼け落ちていた。三十日に出張から戻った父は母を捜し続け、一カ月後、自宅跡の石風呂の中で遺体を見つけた。逃げ場を失い隠れたのだろう。防空ずきんをかぶり、リュックサックを背負い、時計を着け、首を真っ直ぐにして座っていたという。父は涙をこらえ、リヤカーを借りて火葬場まで運んだ。
戦後は配給がなく食糧難で苦しかった。父も翌年四月、仕事と子どもの世話で疲労困ぱいし、急性肺炎で亡くなった。兄弟だけが残され、力を合わせて生き抜いた。なぜ私たちだけが両親を失ったのか。戦争が憎い。
国の指導者が一歩間違い戦争になると、個人の幸せや生命の尊厳はない。国全体が悲惨だ。二十一世紀こそ平和な世界が来ると思ったが、イラク戦争が起こった。日米安保条約があるから米国を支援せざるを得ないが、人道支援とはいえテロがいつ起きるか分からない。
戦後五十九年間、悲惨な体験を語らず心の奥にしまってきたが、空襲犠牲者遺族が高齢化し、イラク戦争の惨状を見た今こそ、平和の尊さを訴え、体験を語り継ぐべきだと感じる。(佐世保)
しもの・たかこ 佐世保市生まれ。小佐世保小、成徳女学校、佐世保南高を卒業後、米軍佐世保基地に勤務。仕事と割り切り約15年間、海軍や陸軍などで英文タイプを打つ仕事に就いた。同市黒髪町。71歳。