一円銀貨 惨状、姉妹の顔よみがえる
高熱で溶け、ひとかたまりになった三枚の一円銀貨。「戦争の悲惨さを伝えたい」と、松友雅夫さん(76)=長崎市竹の久保町=が一九九〇年二月、寄贈した。
原爆が落とされた二日後、自宅の焼け跡で見つけた。父親の敏雄さん=当時(53)=が自分の部屋にしまっておいたものという。自宅は疎開先の城山町の市営住宅(爆心地から約〇・五キロ)。
長崎医科大(現長崎大医学部)付属薬学専門部に在学。当日は学徒動員で船の部品をつくる戸町のトンネル工場にいた。父親は土井首の缶詰工場、市結婚相談所長だった母親のサダさん=当時(53)=は浜町の事務所にいて助かった。
だが、配給を受けるため城山町の豆腐屋の前に並んでいたという小学校教員だった姉の道子さん=当時(23)=の遺体は見つからずじまい。市営住宅の軒下で近所の子の守りをしていた妹の博子さん=当時(12)=は倒壊した住宅からいったん救出されたが、放射線の影響で下痢などを繰り返し約一週間後に息を引き取った。
「一円銀貨が溶けてくっつくほどの熱線を浴びた姉と、最後は私に抱きつき『目が回る』と言いながら死んでいった妹を思えば、今も眠れない日がある」
被爆直後の光景が脳裏から消えない。戸町から自宅へ戻る途中、通りかかった県庁の庁舎が大きな音をたて崩れ落ちた。城山町では防火用水に何人も首を突っ込み、折り重なるように死んでいた。地獄のようだった。
「一円銀貨を見ると当時の光景や、姉や妹の顔がよみがえる」