被爆資料は語る
 -63年目の夏- 5

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被爆資料は語る -63年目の夏- 5 革バンド 悲惨な体験「伝える価値」

2004/08/06 掲載

被爆資料は語る
 -63年目の夏- 5

革バンド 悲惨な体験「伝える価値」

「両肩から左右に交差してぶら下げた布製かばんと水筒のひもがぶらつかないよう腰に巻いた革バンドで締め、やけど対策の厚手の服と戦闘帽を着用し、決死の勇を奮って出掛けた」

八木改造さん(80)=長崎市滑石三丁目=は原爆投下翌日、当時勤務していた三菱重工長崎造船所幸町工場(爆心地から約一・六キロ)の同僚や知人を捜すため焼け野原を歩いた。かばんの中には貯金通帳や重要書類などを詰め、「まるで死出装束だった」と振り返る。

原爆がさく裂した時、仕事場の加工外注課事務所の奥にいた。建物が全壊し、あごやひざなどを負傷した。「いつもの窓際の席だったらガラス片を全身に浴び、どうなっていたか」。病院で手当てを受け、命からがら飽の浦町の下宿に帰宅した。

同僚たちの安否が心配だった。翌日、顔や頭、ひざなどは包帯で覆い、足を引きずり幸町工場に向かった。事務所の残骸(ざんがい)のすき間にはって入り、中を調べたが姿はなかった。下宿の主人が勤めていた浜口町の工場では焼け焦げた死体や数十の白骨体を見た。既に恐怖感は消えていた。

そんな体験を一緒にした革バンド。「私と粉じんや放射線を浴びたことを伝える価値がある」。郷里・熊本市の市立商工学校在学時から使い、戦後も手元に置いていたが手放す決心をし、今年六月寄贈した。「若者たちには平和な世界で人生を全うしてほしい」との願いも込めて。