被爆資料は語る
 -60年目の夏- 2

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被爆資料は語る -60年目の夏- 2 親子3人、生き抜いた証し

2004/08/03 掲載

被爆資料は語る
 -60年目の夏- 2

親子3人、生き抜いた証し

林田エイコさん(72)=大村市溝陸町=は、長崎市大黒町の自宅の焼け跡から持ち出した湯飲みや小皿などの食器を、「家宝」として大切に保管していた。寄贈したのは二〇〇一年。

父は職場で、母と林田さんは自宅で被爆した。全員一命を取り留めたが、家は見る影もなかった。「ぼうぜんとしました。持ち物は着てる服だけになってしまいましたから」。しばらくは自宅近くの防空壕(ごう)で過ごした。

二日ほどしておにぎりなどの配給が始まった。「取りあえず食器を」と思い、自宅の焼け跡を探した。普段使っていた食器は粉々に散乱していたが、押し入れの奥にしまい込んでいた来客用の湯飲みや皿が見つかった。白い大皿は薄黒く変色し、花柄も色あせていた。ほかの物も黄ばんでいたが「それでも見つけた時は本当にうれしかった」。

戦後四年間、長崎市南部の畑の中にあったわずか三畳の小屋を借りて暮らした。電気も水道もない生活。家財道具は、焼け跡から持ち出した食器だけ。引っ越して新しいものが買えるようになっても、捨てずに大事に持っていた。どうしても捨てる気にならなかった。

爆風で飛ばされて腰を痛め、一時両手が使えなくなった父。母ともども七十歳余りまで生きた。食器は形見となっていたが、手放す決心をした。

「原爆ですべてを奪われたけど、命だけは助かった。食器はそんな私たち家族が必死で生き抜いた証しなんです。それを知ってもらいたくて」