思い 「世界に2つ」の自覚を
長崎の反核・平和運動を長く引っ張ってきた被団協代表委員の山口仙二(73)は昨年秋、妻と二人で雲仙岳のふもとに建つ南高小浜町のケアハウスに移り住んだ。
「前の家は高台にあって、外出がだんだん大変になってね。娘が近く(口之津町)におるもんだから」
住み慣れた長崎を離れた今も、求めに応じて時折、小学校や中学校へ足を運び、自らの体験を語り続ける。
大けがをして逃げる途中、首のちぎれた赤ん坊を抱いたまま、泣き叫ぶ母親に出会った。山の上の避難場所では「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶ子の細い泣き声を聞いた。しばらくすると、さっきまで聞こえていたその声は消えた。
自分も連れて行ってくれ、と足元にすがりつく負傷者の手をけ飛ばすようにして逃げ、生きてきた―。山口は訴える。「本当の地獄、本当の極限状況だったんです」
「朝鮮戦争でも、ベトナムでも核兵器が使われなかったのは、広島と長崎がしっかり声を上げ続けてきたから」「八月九日の午前十一時二分が原点。これだけは絶対、忘れたらいけない」―。
核兵器を憎み、その廃絶と世界の平和を願う山口の熱意は、昔と変わらない。ただ、今は、外出の前の晩にぜんそくの発作を抑えるための強いステロイド剤を服用することが欠かせなくなった。老いは、確実に忍び寄っている。
「伊藤さんは原爆の時、お母さんのおなかにいたから、直接の記憶は何一つないだろう。だけど、あなたは世界に二つしかない被爆地の市長なんだから、思い切ってものを言ってください、と繰り返し話してきたつもりだ。核兵器の問題では、誰にも気を使う必要はないから、と」
山口は静かな口調で戦後生まれの長崎市長、伊藤一長(58)への思いを語る。
「確かに衝突もあったけど、国際司法裁判所(ICJ)の演説とか、被爆地域の拡大とか、しっかり頑張ってこられた。今年はホワイトハウスにも直訴に行った。ちゃんと評価してあげないといけない」。温かな視線に、被爆地の“顔”として次代を背負う伊藤への思いがのぞく。
山口に限らず、被爆者たちに残された時間は決して長くない。その思いをどう受け止め、行動に反映させていくか。市長として十回目の夏を迎え、来年、被爆六十周年の節目に臨む伊藤の姿勢に、彼らの視線が注がれている。(文中敬称略)