衝突 なぜ繰り返されるのか
被爆五十九周年の夏を前に、長崎市は市中心部の大型被爆遺構、旧新興善小校舎(興善町)を解体した。昨年春にいったん示された一部保存方針が秋に撤回された。原爆投下直後、臨時救護所として被爆者の生と死を見届けた校舎は、迷走の末、更地に戻った。
「伊藤市長は、とうとう最後まで私たちと会おうとしなかった」
校舎の保存を求め、署名運動や座り込みなどの活動を続けた市民グループ「旧新興善救護所を保存する市民連絡会」の中心的存在だった被爆者の竹下芙美(62)=同市滑石六丁目=は、今もやりきれない思いが募る。
今年三月、定例市議会開会中のある日。連絡会のメンバー数人が、議会棟と市役所の庁舎を結ぶ渡り廊下に集まり、昼休みで自室に戻るはずの伊藤を待ち伏せたことがあった。
「一度でいいから話を聞いてほしい」―。再三の面会要請に応じようとしない市側の姿勢に業を煮やした“直訴”だった。しかし、竹下らの動きを知った伊藤は本会議の休憩後、議会事務局に立ち寄り、午後の議事再開まで姿を見せなかった。「なぜ、ここまで嫌われなければいけないのか」。メンバーは落胆した。
被爆者たちと伊藤の衝突は、初めてではない。
伊藤の市長就任から一年近くが過ぎた一九九六年春、爆心地公園(同市松山町)の原爆落下中心碑撤去・建て替え計画が浮上した。「無宗教の墓標」の役割を果たしてきた三角柱の中心碑の代わりに「母子像」を設置する―。市の方針に被爆者らは一斉に反発した。九七年二月、市が方針を撤回し、中心碑の現在地存続を表明するまで、混乱は十カ月にわたり続いた。
「あの時の市長は、最終的に皆の主張を理解してくれた」。竹下は振り返る。だが旧新興善小校舎の保存問題で、その教訓は生かされなかった。
「私たちも、市長も、同じように被爆体験の風化を懸念しているはず。なのに、なぜ衝突が繰り返されてしまうのか。一緒にやっていこうよ、という気持ちを見せてもらえないのが悔しい」(竹下)。
伊藤は四月末、核拡散防止条約(NPT)再検討準備委員会に出席するため、ニューヨークに出発した。校舎の解体は、伊藤の留守を見計らうようにして、大型連休のさなかに始まった。
「世界に向けて訴えた言葉や、流した涙がうそだとまでは言わない。だけど、世界に向かって何かを言うたびに少しずつでいいから、市長自身も変わってほしい」。竹下の怒りは消えない。(文中敬称略)