宿命 肉親、級友への鎮魂
「手伝ってもらえないか…」。三月末、荒木正人からかかった一本の電話。丸田和男は迷いなく引き受け、自らに言い聞かせた。「生き残った者の宿命。重責だが、お前がやらなければ誰がやる」
被爆者の高齢化が進む中、「長崎原爆戦災誌」は、後世に原爆被害の実相を客観的に伝える基本的文献となる。特に改訂対象の第一巻「総説編」の内容は、日中戦争に始まり、原爆投下、救援と医療救護、戦災復興、原爆犠牲者の慰霊、平和祈念と多岐にわたる。改訂作業には、当時の長崎を知る被爆者の存在が欠かせないのだ。
丸田はあの日、母と多くの級友たちを亡くした。当時十三歳。あこがれの旧制県立瓊浦中の門をくぐって四カ月後だった。爆心地からわずか約八百メートルの高台にあった木造校舎は全壊。約千二百五十人の在校生のうち、四百人近くが学校、動員先の兵器工場、自宅などで若い命を絶たれた。
「どこか遠い戦場の話ではない。われわれが今生活している長崎の地で、戦闘要員でもない多くの級友たちの命が奪われた。いつ、どこで、どんな最期を遂げたのか、今でも分からない仲間がいる」。あれから五十九年、母や仲間のことを忘れたことはない。
丸田自身も期末試験を終え、銭座町の自宅に帰った直後に被爆。倒壊した建物の下敷きになった。母の遺骨とともにたどり着いた諫早の救護所で「赤痢」と診断され、隔離病舎に収容された。高熱と下痢が続き、生死の境をさまよい続けた。
現役を退いた一九九七年、長崎平和推進協会写真資料調査部会に入会し、瓊浦中の先輩でもある荒木と出会う。そして「語り部」にもなった。一枚の名簿を手掛かりに、同級生の遺影を収集。昨年開館した国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に登録し、ともに将来を語り合った「少年たち」の生きた証しを刻んだ。
丸田は、改訂作業の現場で原爆関連の文献をひもときながら、あの日に思いをはせる。
「第一目標の『小倉』が晴れていたら仲間が死ぬことはなかったし、下校時間がもう少し遅れていたら、私もここにいなかった。神様は私に死ではなく生の道を与えた」
そして、あらためて決意する。「被爆から五十九年。私はあの日から時間が止まったままの母、そして友人たちの年齢をはるかに超えた。犠牲者の鎮魂と追悼の気持ちを込め、残された人生を被爆体験の継承にささげる」と。(文中敬称略)