宣伝単(上) 日時“論争”に終止符を
今回の「長崎原爆戦災誌」の改訂で、荒木正人は一つの“論争”に終止符を打とうと考えている。
「即刻都市より退避せよ 日本国民に告ぐ!」
太平洋戦争の末期、米軍機は日本各地で、爆撃を予告したり、降伏を呼び掛ける「宣伝単(ビラ)」を上空からまいた。このうち長崎に残る一種類のビラについて、まかれた日時をめぐる論争が長く続いた。
はがき大のビラには、広島への原爆投下の事実と、さらなる原爆の使用をほのめかす内容が記され、国民に降伏と退避を警告。文中には「原子爆弾」の記述もある。
だが、投下予定地を特定した記述はなく、ビラを拾った日時についての決定的な証言もなかった。このビラは、長崎への原爆投下を事前に通告した「原爆予告」だったのか、それとも国民の戦意喪失を狙って原爆投下後の焼け野原にまかれたものだったのか―。
「ビラがまかれたのが原爆投下前なら、米軍は長崎市民に退避の猶予を与えていたことになる」(荒木)。
ビラの投下時期に最初の公的な解釈が加わったのは、旧長崎国際文化会館の時代。当時の同館原爆資料室は、ビラの文面から原爆投下前と判断、展示の説明文に「(原爆)投下の前日」と記した。
ところが一九七三(昭和四十八)年、ある証言集の発刊をきっかけに「投下後」の説が浮上。見解を求められた長崎国際文化会館・原爆資料協議会でも議論は平行線をたどり、説明文は両説を併記した「投下前後」と書き換えられた。
七七年から八五年にかけて発刊された原爆戦災誌は宣伝単に関し、証言者の記憶がより具体的な「投下後」の手記を中心に客観的に記述。「八月九日前にまかれたかどうかについては、まだ定説はない」と結んだ。
八七年、論争が再燃した。投下後と主張する被爆者団体など二団体が説明文の再検討を求める要請書を提出。再び原爆被災資料協議会の議題に上り、最終的に「投下前を否定できないが、投下後説が極めて有力」との結論に達した。
だが、最近でも「ビラは投下前に見た」と訴える人は後を絶たない。
「この論争に決着をつける資料が近年、見つかった」。荒木は一冊の書物を示しながら、静かに説明を始めた。(文中敬称略)