退避勧告 本当に連絡あったの
「B―29少数機、長崎方面に侵入しつつあり、全員退避せよ」
防衛庁防衛研修所(現・防衛研究所)が、一九六六年から十五年間かけて編さんした「戦史叢書」。全百二巻からなる太平洋戦争の膨大な記録の中の長崎原爆に関する記述だ。
一文は、戦史叢書「本土決戦準備」(七二年発行)の「原爆第二号長崎投下」の項目にある。当時福岡にあった第一六方面軍司令部は、八幡上空を旋回後、南西に向かった敵機の攻撃目標を長崎と判断。ラジオや各種通信機関を利用し、「全員退避」を繰り返し連絡した、とある。
この連絡は本当にあったのか―。荒木正人が長年抱き続けてきた疑問の一つだ。「こんなラジオ放送は誰も聞いていない。証言集にもそんな記述はない。もし聞いていれば、市民は防空壕(ごう)に逃げ込んだはずだ」
荒木らが編さんした原爆戦災誌の第一巻「総説編」は、投下直前のラジオ放送について、この項を一部引用し「B29少数機、島原半島北部を西進中、長崎方面に侵入しつつあり」と記したが、「全員退避」には触れていない。
八〇年代、市の嘱託職員として戦災誌の編さんに携わっていた荒木のもとに、原爆投下当時、長崎放送局(NHK)の職員だった男性から百通にも上る手紙が届いた。原爆投下前後の疑問点や指摘がつづられ、「全員退避」を強く否定する内容もあった。
八二年、荒木は男性の紹介で防衛庁を訪ね、戦史叢書の記述の真意を確かめようとした。だが、「当時の関係者は既に亡くなっている」と告げられ、うやむやのまま調査を終えた経緯がある。
謎はほかにもある。
原爆投下直前の空襲警報。戦史叢書には「國東半島から北九州地区に向かうB―29二機が発見されたので、西部軍管区司令部は一〇五三(午前十時五十三分)空襲警報を発令した」とある。一体どこに発令したのか、なぜ長崎には発令されなかったのか―。
さらに原爆投下直後と思われる福岡、佐賀、熊本の関係者の証言。「新型爆弾投下」「退避勧告」「火災消火の呼び掛け」といった長崎向けの臨時ニュースを聞いた人が複数存在する。「長崎にはそんな証言はない。いつ誰が、どこに情報を流したのか」。荒木は首をかしげる。
「原爆に関し分からないことがたくさんある。どこまで解明できるだろうか…」。テーブルに並べた資料を手に、荒木はつぶやいた。(文中敬称略)