都市計画の波 場当たり的な保存行政
長崎市出島町。十九世紀初めの「出島」を再現する国史跡「出島和蘭商館跡」の復元整備事業は、第二期事業に差し掛かっている。第一期で建築された建物五棟は完成、南側の石垣の復元などが着々と進む。
洋館風の赤い三角屋根が印象的だった被爆建造物の海江田病院は、市の一大プロジェクトにのみ込まれて姿を消した。
同病院は昭和初期、出島の中央部に建てられた。爆心地から南に三・六キロ、爆風で窓ガラスがほとんど割れたが、市の被爆建造物等取扱基準では被爆の痕跡が薄いDランクとされた。
市は一九九六年、出島復元整備計画を策定、用地の公有化を推し進めた。用地内の同病院は九七年十月、市に買収され、建物は九八年三月に取り壊された。跡地には「十五番蔵」が復元される。
元所有者は「趣のある建物で、できれば残したかった。長崎らしさを町の中に残す視点がほしい」と思いを明かす。
近現代史が専門の長崎総合科学大の木永勝也助教授は「市の都市計画の中に、被爆遺構や文化的遺産をどう残し、生かすか、という視点が欠けている」と指摘する。
ドイツの戦争遺跡は最低限補強し、そのままの形で使いながら残すケースが多いという。「戦争や原爆を知らない子どもたちのために平和を考える材料を町の中に残すという発想を、行政や市民が持つ時期に差し掛かっている」。木永助教授はこう提起している。
市中心部にあった磨屋(諏訪町)、勝山(勝山町)、新興善(興善町)の三小学校は、ドーナツ化現象や少子化による児童数の減少で統廃合された。前身の国民学校時代は、被爆直後の救護所として使われた被爆建造物だったが、磨屋、勝山は新しい学校に生まれ変わった。新興善は今年六月末までに解体され、市の図書館が建設される予定だ。
今年六月の市議会厚生委員会。原爆投下の第一報を打電したといわれる立山一丁目の立山防空壕(ごう)を保存するという市側の方針を聞き、委員の一人が手を挙げた。
「市の政策判断だけで、簡単に壊されたり、残されたりするのは市民感情として理解し難い」
立山防空壕は、市の取扱基準では、新興善と同じ「保存対象」のBランク。「解体」「保存」の正反対に分かれた市の対応に疑問を示すものだった。
市側は「市原子爆弾被災資料協議会に諮り、その時々の状況に応じて検討する」と釈明したが、場当たり的な保存対策を浮き彫りにした。 「十年、二十年先の長崎の町が見えない」。委員は何度も首をかしげた。