せめぎ合い 民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。
長崎市が被爆建造物の保存対策に本腰を入れたのは、被爆五十周年を控えた九四年ごろから。原爆に遭った建物や橋、植物などの現況調査を開始し、九六年三月、報告書「被爆建造物等の記録」にまとめた。
市の調査開始から十年が経過。その間、調査対象となった十一カ所の建造物や樹木が姿を消した。稲佐製氷工場跡など六カ所は民間の所有だった。
老朽化や都市開発に伴う建て替え、売却、遺産相続による所有者の移転―。民間の被爆建造物の保存には、さまざまな事情に伴う高いハードルが立ちはだかる。
学識経験者や被爆者団体の代表らでつくる「市原子爆弾被災資料協議会」は被爆の痕跡などを物差しに、九八年三月までに百三十七カ所の被爆遺構をA―Dのランクに格付けした。
A、Bランクの五十四カ所は、九八年四月から始まった被爆建造物の保存、補修に関する補助金制度の対象となったが、CとDランクには、拘束力も財政支援もないのが現実だ。
長崎原爆資料館の森田隆館長は「C、Dランクは、被爆の痕跡が薄いなどの点から一定の線引きを行っている。だから、できるだけ残してほしい、とお願いするしかない。人や地域にはそれぞれの暮らしがあり、建造物や樹木があった場所に説明板すら設置できずにいる」と話す。
遺構保存をめぐるさまざまなせめぎ合いの中で、惨禍を記憶する“証人”たちが消えてゆく。
1995年以降姿を消した被爆建造物(樹木)
▽Bランク=新興善国民学校(興善町)▽Cランク=勝山国民学校(勝山町)磨屋国民学校(諏訪町)伊良林国民学校(伊良林1丁目)▽Dランク=長崎木装本社(大浦町)海江田病院(出島町)水神神社の鳥居(本河内1丁目)▽ランク付け前=日本冷蔵稲佐製氷工場跡(光町)目覚橋(宝町―銭座町)被爆カキの木(川平町、岩屋町)