消えた“証人”
 =長崎の被爆遺構= 1

被爆カキの木は道路中央のマンホール付近にあった=2004年7月、長崎市川平町

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消えた“証人” =長崎の被爆遺構= 1 カキの木 熱線遮った命の恩人

2004/07/21 掲載

消えた“証人”
 =長崎の被爆遺構= 1

被爆カキの木は道路中央のマンホール付近にあった=2004年7月、長崎市川平町

カキの木 熱線遮った命の恩人

長崎に原爆が投下されてから五十九年。被爆の実相を、静かに、雄弁に語り継いできた建物や樹木が、時の流れとともに少しずつ姿を消している。都市開発やさまざまな事情で、消えた“原爆の証人”を通し、被爆地長崎の今を考える。

「大きな被爆遺構を残すのは個人の力ではどうしようもない。行政の支援と地域の理解がなければ困難だということを身をもって知った」

カキの木を所有していた故多以良忠男さんの二女、南エミ子さん(65)=同町=は、真夏の日差しが照り付けるアスファルトを寂しそうに見詰めた。

カキの木は、南さんの“命の恩人”だった。

あの日、小学一年生だった南さんは飛行機の爆音と「逃げろ」という隣人の叫び声を聞き、夢中で木の幹にしがみついた。背後の自宅は全焼、南さんは熱線を遮ってくれた木に守られ、無事だった。

樹齢三百―五百年ともいわれたカキの木は、熱線で焼けた部分が黒ずみ、大きな穴が開いた。その後、木の周りは道路になったが、木は多くの実を付けた。

樹勢が衰え、枯れ枝が目立つようになった約十年前。南さんは、被爆樹木の保存で市が補助金制度の創設を計画していることを新聞で目にした。「今度は私が助ける番」。一も二もなく市役所に相談に駆け付けた。

市から紹介された樹木医は、木の治療を急ぐよう勧めた。しかし、費用は二百万―三百万円。個人で負担するには重すぎた。補助金制度ができるまでには、かなりの時間が必要と感じた。

困り果てた南さんは、保存に補助金が受けられると聞き、県の天然記念物指定に望みを託した。治療を始めたカキの木は、樹皮をはがれてみるみる衰え、一九九七年六月に枯死、そして伐採された。

「衰えた木を見た別の樹木医から『樹皮をはがすのは命取り』と言われた。天然記念物指定も、地域の理解が得られなかった」。南さんは、治療や記念物に関する知識が少なかった自身が悔やまれてならない。

被爆体験の継承が叫ばれる中、市民の多くは「戦争、原爆は嫌。被爆遺構を通して平和の尊さを語り継ぐべきだ」と口にする。しかし、「実際、身近な生活にかかわる問題になると話が変わる」。南さんが感じる現実だ。

九八年四月、市の被爆建造物や樹木の保存補修に関する補助金制度が始まった。南さんの命を守った“恩人”が死んだ十カ月後のことだった。

高さ約十一メートル、幹回り約三メートル。そのカキの木が存在した場所は今、道路になっている。