朴畢順さん 日本政府が何とかして
在外被爆者に、被爆者援護法に基づく健康管理手当などの各種手当が支給されるようになって間もなく一年。在外被爆者約五千人のうち、約千三百人が手当を受け取っているが、来日できない被爆者への援護は閉ざされたままだ。高齢と病気、貧困にあえぐ在韓被爆者の現状と、手続きに来日を前提としている援護法の問題点を探る。
韓国・釜山市の中心部から北西に車で約三十分。広島で被爆した朴畢順(パクピルスン)さん(74)は、夫の李奎炯(イケイケイ)さん(74)と二人で暮らしている。
簡易トイレ、介護用つえ、電気釜が置かれた六畳程度の部屋。朴さんは三年半前、脳出血で倒れて以来、左半身がまひ。薄い布団にやせ細った体を横たえていた。
夫妻の収入は、一九九〇年に日韓両政府が合意した被爆者援護策の「医療費補助」(月十万ウオン=約一万円)が頼り。李さんは「妻の薬代、家政婦代、食費などに月五十万ウオンかかる。生活がとにかく苦しい」と漏らす。
「いつか役に立つ日が来る」。朴さんは倒れる前の九八年、当時は出国すると失効した被爆者健康手帳を取得していた。日本政府が昨年三月分から在外被爆者にも手当支給を始めたことで、朴さんが待ち続けた「いつか」がやって来た。
だが、手当申請を「居住地(または現在地)の都道府県」と規定した援護法の施行規則が、朴さんの前に大きく立ちはだかっている。寝たきりの朴さんは、来日して手当を申請できない。国外からの郵送や代理人による申請は認められない。
「朴さん、手当が出ることを知っていますか」。三月十三日、長崎市の在外被爆者支援連絡会の平野伸人さんが朴さん宅を訪れた。
「知ってます。日本に行ける人はいいが、私は体が動かないから行けない。手帳を持っているから、日本政府が何とかしてくれたらいいのだが」。か細い声で訴える朴さん。手帳の恩恵を受けられない悔しさがにじむ。
「まだまだ私たちの仕事は残されています。残された課題は深刻」。平野さんは、ため息交じりに言った。最も援護が必要な人が手当を受けられない矛盾。平野さんは、すがるように見詰める朴さんの手を握り返すしかなかった。