命に敵も味方もない 国共内戦に看護婦として従軍した 福田藤江さん(72) =長崎市ダイヤランド4丁目=
戦後、中国人民解放軍に加わり、国共内戦に看護婦として従軍した福田藤江さん(72)=長崎市ダイヤランド四丁目=。「中国で『正義の戦争』『不正義の戦争』という言葉を教えられた。だが戦争に正義も不正義もない」。戦場で失われていく命を見詰めてきた福田さんはこう言い切る。
中国・大連生まれ。錦州の高等女学校に在学中、学徒動員で看護教育を受けた。敗戦の知らせを聞いた翌日の八月十六日、ある下士官は「関東軍は負けていない。部隊とともに戦う決意がある者は一緒に来い」と言った。福田さんら女学生二十九人が従った。
各地を転々とし、安東に滞在していた一九四六年三月、隣町の関東軍の病院に日本人傷病兵がいると聞き、駆け付けた。病院は東北民主連軍(後の中国共産党の人民解放軍)に接収されていた。福田さんらは同軍に志願参加という形になってしまった。ほかに行き先もなかった。
内戦が始まり、四七年に人民解放軍が発足すると福田さんは第四野戦軍に配属。日本人の仲間とともに前線で中国人傷病兵の看護に当たった。そのまま従軍し各地の戦線を徒歩で移動。過酷な状況で仲間のうち六人が異国の土になった。
次々と運び込まれる傷病兵に医薬品も不足し、「布を裂いて包帯にしたり、ガーゼの代用で紙を使った。薬もなく、ラードに赤チンを混ぜ軟こうにし患部に塗り込んだ」。東北部では凍傷や天然痘に苦しめられ、南部ではマラリアも流行。けがと病気の両方を治療しなくてはならなかった。
「軍国少女だった」福田さんは関東軍と一緒に死ぬことが名誉と信じた。だが戦場で見たのは兵士が痛いともがく姿だった。「命という立場から見れば敵も味方もない」。戦争に対し疑問を持つようになっていく。
ようやく五八年に帰国した。長崎の母は、死んだはずの娘を見て驚がくした。県原水協に長年勤め、被爆者の生活実態に触れた。
終戦の八月十五日は、竹やりの訓練だった。翌十六日は関東軍に従う決意をした。あれから五十八年たっても戦火は至る所にある。「どんな戦争も許せない」という福田さん。イラク戦争を「民間人は何も分からないまま殺された。正義はない」と語る。