後方支援は戦争加担 日中戦争、太平洋戦争に従軍した 高松高雄さん(86) =佐世保市松瀬町=
「悲惨な戦争を経験した日本人が、なぜまた同じ道を歩もうとしているのか」―。米中枢同時テロやイラク戦争を機に、米英軍への“後方支援”を国際貢献の名の下に積極的に進めようとする今の日本政府の動きに、佐世保市松瀬町の無職、高松高雄さん(86)は憤りを感じている。「戦争で一番重要なのは後方支援。それを行うことは戦争に加担しているのと同じだ」
高松さんは十七歳で志願兵として陸軍の久留米戦車第一連隊に入隊し、一九三七年九月から約二年間、日中戦争で上海や南京などを転戦。徐州会戦で偵察中に戦死し、後に“軍神”として映画化された西住小次郎中尉に仕え、旧満ソ国境のノモンハンやフィリピンにも従軍した。
終戦前日の四五年八月十四日、高松さんはフィリピン・ルソン島南アンチポロの最前線で米軍と対峙(たいじ)していた。「戦地では戦友が次々と砲弾に倒れ無残に死んでいく姿を目の当たりにした。食べるものがなく、ヘビやトカゲなど口に入れられるものは何でも食べた」
銃弾も食料も底を尽き、同日夜、切り込み隊を組織してわずかばかりの爆薬や手りゅう弾を持って敵陣への奇襲を決行したが、すぐに発見され、失敗に終わった。「勝算があったわけではない。命令だから切り込んだ。どうせ生きて帰れないのだからという悲壮な気持ちだった」
翌十五日、上官から日本がポツダム宣言を受諾し戦争が終わったことを聞いた。「正直ホッとした。それまでは死ぬことばかり考えていたが、生きる希望がわいた」。一週間後、部下とともに米軍の武装解除を受け、マニラの捕虜収容所を経て同年十一月、復員した。
やっとの思いで実家(佐賀県牛津町)にたどり着き、父親に「ただいま」と声を掛けると「どなたですか」と言われた。出征時九〇キロの偉丈夫は四〇キロそこそこにやせこけ、肉親でも見分けられないほど変わり果てていた。
「戦争は勝っても負けても犠牲者は出る。戦争自体が人類最悪の悲劇。どんな形であれ二度としてはならない」と言う。「国際貢献も大事だが、戦争に加担しないのはもっと大切。イラクへの自衛隊派遣が行われるようだが、できるなら派遣してもらいたくない」。戦争を体験した高松さんの偽らざる気持ちだ。