「戦争」を語る
 =それぞれの8・16= 2

「戦争とは、人間とは何か」。ドイツでの学術交流を通して痛感したと語る田川さん=長崎市内

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「戦争」を語る =それぞれの8・16= 2 封じ込めた“死”の記憶 東京大空襲と長崎原爆を体験した 田川禮子さん(75) =長崎市昭和2丁目=

2003/08/15 掲載

「戦争」を語る
 =それぞれの8・16= 2

「戦争とは、人間とは何か」。ドイツでの学術交流を通して痛感したと語る田川さん=長崎市内

封じ込めた“死”の記憶 東京大空襲と長崎原爆を体験した 田川禮子さん(75) =長崎市昭和2丁目=

田川禮子さん(75)=長崎市昭和二丁目=は、長崎生まれで東京育ち。女学校に入学した年の暮れ、日米戦が始まった。「真珠湾攻撃の後、ちょうちん行列に並んだ」。大人も子どもも高揚感に身震いした。昼間は、動員先の軍需工場で航空兵が使うマスクに眼鏡を縫い付けた。夜は米軍上陸に備え、竹やりを突く訓練を続けた。

一九四五年三月十日、首都は火の海になった。防空ずきんごと頭を防火水槽に突っ込み、ずぶぬれで町を逃げ回った。「頭上を飛ぶ何百機もの敵機を見て『日本は負ける。早くやめて』と内心願った」。そんな自分が非国民に思えた。大空襲後、親類を頼り長崎に疎開した。原爆投下の一カ月前だった。

「みじめなことを思い出すだけ」。東京大空襲を命からがらくぐり抜け、たどり着いた町で原爆に遭った。死を強烈に意識した二つの体験は、その後の人生に影を落とした。その記憶は、ずっと心の奥底に閉じ込めて生きてきた。

今年六月、田川さんはドイツ南部のシュツットガルトの高校にいた。二年前、「原爆と戦争」をテーマにした市民講座と出合い、日本とドイツの歴史や戦後補償の違い、日本のアジアに対する加害を学び、がくぜんとした。

講座のメンバーで日独の市民シンポジウムを開こうと訪問した。終戦から五十八年目、初めて人前で戦時中の体験を語った。高校生から原爆を投下した米国への感情を問われた。

「領土を広げるために朝鮮半島や中国大陸を侵略した。今は戦争をなくし、核兵器を造らない方法を一人ひとりが考えるとき」。思わず米国ではなく、日本のことを話していた。

田川さんは「過去を知り、体験を伝えることは未来への責任」だと考える。病身を押し、封じ込めた記憶の糸をたぐり寄せ、話した。

「戦争をするのも人間、止めるのも人間。誰だって戦争は駄目だと分かっている。それでも世界で争いが絶えないのはなぜ」―。「早くやめて」と願った少女のころの記憶までがよみがえった。熱心に聞く高校生たちが浮かべた涙を見て、気持ちが通じた気がした。