国の「暴走」膨らむ不安 旧関東軍高射砲部隊に所属 本田哲郎さん(85) =南高深江町=
あす十五日は終戦記念日。長崎原爆の日の「長崎平和宣言」で「核軍縮は崩壊の危機」と強い懸念が示されるなど、世界はまた、危険な方向に進もうとしている。国内でも有事関連法やイラク特措法の成立で、「戦争」が再び身近になった。戦後五十八年。当時の記憶は薄らぎつつある。戦争体験者や原爆、空襲に遭ったり、戦後の中国で看護婦として働いた人を通して、「戦争」「平和」を考える。
「今の日本は満州事変前の状況に似ている」
有事関連法やイラク特措法などが次々と成立する日本。南高深江町の社会福祉法人山陰会理事長、本田哲郎さん(85)は、危機感をこう口にした。
「テロやイラク戦争、北朝鮮の核開発など、私も含めて国民の不安感は膨らんでいる。政府はその不安感を利用して、危ない法律をどんどん通している。ごまかしと強引さで進める手法は戦時と同じ」
厳しい不況下の一九三一年、旧関東軍が奉天(現・瀋陽)北方の柳条湖で満鉄爆破事件を起こし、満州事変に突き進む。有事を理由に軍部が暴走し始めた時、本田さんは十三歳。太平洋戦争に突入した十年後、赤紙を受け取った。福岡での訓練を経て旧満州の新京へ。旧関東軍の高射砲部隊に所属し、各種訓練と警戒の日々を過ごした。
終戦間際の四五年夏、攻めてくる旧ソ連軍との新京での市街戦に向け、本田さんは敵の戦車の下に爆雷を素手で押し込んで破壊する決死隊の一員となった。息を潜めて待ち受ける緊迫した状況がしばらく続いた。
そうした中、終戦を迎えた。上官の将校は、民間人より優先して自分の家族を護衛付きで退避させた。「こんな将校のために自分は命を懸けてきたのか」。怒りに震えた。
本田さんは旧ソ連軍に連行され、今のウズベキスタンに抑留。炭鉱など強制労働に従事する中、多くの仲間が栄養失調で亡くなった。四八年ごろ、帰国の許可が出て、ナホトカから船で舞鶴港へ。遠くに浮かぶ日本の風景に、ようやく終戦の実感がわいた。
深江町に帰郷し、農業に従事。その後、保育園、知的障害者更生施設を開設。雲仙・普賢岳噴火災害時は、施設の避難と存続に奔走した。「私自身は前向きに生きてきた。だが、再び日本が戦争に踏み込めば、そのしわ寄せは障害者ら弱者が一番受ける。いったい誰が守るのか」
危うい方向に転がるかにも見える日本。山陰会では近年、ブラジルやカンボジアなど海外の知的障害者施設との交流事業を進めている。それは「違う国の施設同士、直接交流していれば、どっちかが戦争に巻き込まれても片方が支援できる」からだ。本田さんは「世界の障害を持つ子らを守るためにも、このやり方で進めていく」と言う。