批評せよ、目をそらすな
父山田かんは、がん発見後の一昨年、こん身の力を込めた評論集「長崎原爆・論集」をまとめ、一冊を私にくれた。手渡す前に銀のマジックで黒い中表紙に書き付けた。
「我れ重層する歳月を経たり 二〇〇一・三・十一 父より」
今、その字体を見ながら、被爆を起点に怒りや悲しみ、迷いや決意など幾つもの層を重ね、独自の思想を表現し続けてきた父のことを思う。そしてその幾重もの層は、私や孫の人生にも重ねられていく。
二十五年ほど前、西彼長与町の自宅で、夜に父は中学一年の私を呼んだ。珍しく、ウイスキーは飲んでいなかった。
父は、自身の被爆体験と被爆二世の問題について静かに語った。私は、原爆が自分の問題でもあるということに、その時初めて気付いた。受け止めきれない複雑な気持ちになったこと、父がつらい表情をしていたことを覚えている。大学生になり、被爆の後世にわたる人体への影響を調べたが、はっきりしたことは分からないままだ。
私に昂也(こうや)(2つ)、兄直己(なおき)(41)に奎太(けいた)(1つ)、父が亡くなる二週間前に私の二男晟也(せいや)が生まれた。兄は「自分に子どもができたとき不安はあった。これから何も(影響が)出らんとは限らん」と語る。
長崎に原爆が投下されたあの日から五十八年がたつ。だが私たちは、原爆の陰湿で理不尽な影響に小さな不安をうずかせ、これからも生きていく。いつかまた、あの日の父のように子に話さなければならない。父が私に話したときの、申し訳ないような気持ちと「受け止めて乗り越えろ」という期待が今は少し分かる。
がん発見から四年を生き、あの気難しかった父は家族が驚くほど孫をかわいがった。「昂也とおれは友達だ」と話し、昔の寡黙な雰囲気は影を潜めた。そしてその間、詩誌や複数の著書を刊行。ペンを持つ力さえ失われつつある中、「短句」という形で思いを書き続けた。
<ジイチャン熱下がった?と問うやさしい子よ>
<昂ちゃんが来た島原の空をつれてきた>
<人を殺すな人を愛せ自身の如く昂也奎太よ>
<晟也とは聖夜のみ空イエスかな>
(詩稿ノートより)
<昂也も奎太も戦争には行くな行きなさんな>(詩誌「草土」二十八号)
父は小さな命に生きる力をもらいながら、孫がこれから歩む社会を見詰め、願いを重ねた。勇気を持って、戦わぬために戦えと。
そして四月五日、父は「瀬戸夕暮(せどひぐれ)駅」を書く。少年時代、被爆地の惨状を意志を持って凝視し続けた父。この詩では自分自身に迫り来る闇に目を凝らす。死に対する決意に胸が熱くなった。
そしてもう一編。亡くなる十日ほど前、親友の作家中里喜昭さん(67)に「言葉とカラスミ」という未発表の詩を託した。内容は、ある日知人に「長崎原爆・論集」を送ったら、お礼にからすみだけ送られてきたという日常風景。言論とからすみが交換されたことへの皮肉と冷笑が父らしい。死の片りんも感じさせない。そしてこう書いた。
<批評は必要である/よしやそれが悪口であれ罵詈(ばり)であれ/精神の緊張は昂(たか)められるのだ>
父の死に前後して有事関連法、イラク復興支援特別措置法が成立した。日本は直接戦争にかかわり始めている。危機感を募らせていたはずの父。思いの丈を込めた最期のメッセージは、私たちの日常における基本的な生きる姿勢についてだった、と受け止めている。
「暮らしの中で、内面と外部に目をそらさず物事を深く考え表現せよ。言い過ぎてもいい。そこから変化は生まれる。思考を停止するな」