我れ重層する歳月を経たり
 =父 山田かんの軌跡=
 山田貴己(長崎新聞記者) 6

山田かんが魂をたぎらせ、つづった詩や評論を掲載した同人誌や詩集など

ピースサイト関連企画

我れ重層する歳月を経たり =父 山田かんの軌跡= 山田貴己(長崎新聞記者) 6 批判精神やむことなく

2003/08/04 掲載

我れ重層する歳月を経たり
 =父 山田かんの軌跡=
 山田貴己(長崎新聞記者) 6

山田かんが魂をたぎらせ、つづった詩や評論を掲載した同人誌や詩集など

批判精神やむことなく

「神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされた」「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき潔き羔(こひつじ)として選ばれた」

自ら被爆し救護活動に従事した故永井隆博士(一九〇八―五一年)は、長崎・浦上に投下された原爆について、著書「長崎の鐘」でこう記している。「浦上の聖者」とたたえられたカトリック信者の永井博士は、長崎市名誉市民であり天皇の見舞いも受けた人だ。

父山田かんは七二年、雑誌に掲載された「聖者・招かざる代弁者」で、永井博士の言説について「『原爆』の内質としてある反人類的な原理をおおい隠すべき加担にほかならなく、民衆の癒しがたい怨恨(えんこん)をそらし慰撫(いぶ)する、アメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギー(事実に反する扇動的な宣伝)」などと厳しく指摘。批判の姿勢を崩すことはなかった。

掲載当時、家庭内にはタブーに触れた恐れのような、うっすらとした不安感が漂っていたのを覚えている。それでも父は「差別され被爆したカトリック信者は永井の言葉に救われたかもしれない。だが『原爆は神の摂理』という永井の言説は、長崎原爆に神や祈りのイメージを付加し被爆者を沈黙させ、原爆による大量虐殺の本質、使ったアメリカの罪悪を覆い隠す役割を果たした」と語っていた。

永井博士の言説の意味や社会への影響については、特に近年、地道な研究も進んでおり、賛否両論がある。

父は、被爆体験と非常なる読書量で得た知識、言葉と論理の研さんによって、多岐にわたり怒りの意志を表現した。平和祈念像とその制作者、浦上天主堂を取り壊した長崎市、白馬の天皇、核を作動させ保有する権力、その権力におもねる権力…。これらに対する怒りだ。

被爆五十八周年のこの夏、私は、父の詩集や今も長崎原爆の象徴的位置にあり続ける永井博士の著書などを読み返し、父の怒りの意味を考えている。まだ時間がかかりそうだが、未来を見据えるため、被爆地長崎がこの五十八年間で何を積み上げ、置き去りにしてきたのかをとらえる上で必要な作業だと思っている。

父が息を引き取る十時間ほど前、有事関連法成立などについて父と会話した作家の中里喜昭さん(67)は、告別式の弔辞で「きみは、はらはらするようなほんとのことを、けっして飾らない言葉でそのまま言ってしまう恐ろしい詩人でした」と述べた。

母和子(69)は「批判精神の裏側には人間に対する優しさがあったのだと思う。だからこそ、無残な死に方を強いた戦争と原爆に怒り、それを覆い隠すすべてのものにも憤り続けたのかもしれない」と話す。

<浦上天主堂のかけらを据えて/原子爆弾はこういうものだと/いうロマネスク/長崎はどうしてこうなるの/国際文化都市だと/おまえは邪宗だ 耶蘇(やそ)は敵だと/爆弾をおとされて平和の礎(いしずえ)だと/死だと 吉利支丹(キリシタン)は切死丹(キリシタン)だと/祈って死んだと/―略―/ことだまばかり 栄え/なにもかもことばの調子の変幻に/意識さえも均(な)らされていく>(「塔について」抜粋)