信仰に失望とあこがれ
<確かなことは地に虐殺がつづいている/かぶさって天は眺めているだけだ>(「高い天」抜粋)
父の家族は、プロテスタントのクリスチャンホームだった。父は幼児洗礼を受け、牧師か絵描きが将来の夢だったという。
戦中は敵性宗教の信者の子として「耶蘇(やそ)!耶蘇!」と差別され、教師から「天皇陛下とキリストはどっちが偉いか」などと陰湿な質問を何度も浴びせられた。カトリック信者もプロテスタント信者も周囲から厳しい目で見られる状態にあったが、信仰は父のよりどころだった。
だが、終戦間もないころ、父は、ふと訪ねた牧師館で深く失望する。
<室内にアメリカ給与のジャムとバターの匂(にお)いがただよい、テーブルに白パンの塊が散乱し、パン屑(くず)が地の塩のような色合いでこぼれているだけで、無人の廃屋のように不在であった。ジャンバルジャンの行為ににた激しい気持が動こうとするのを抑えつづけていた。こうしてひとつの時代がぼくの中で炎のように終ったのだ>(「『長崎聖公会略史』のことなど…」抜粋)
被爆地の人々が飢餓にもがき、死と隣り合わせだった時代、牧師館には聖職者と庶民の格差が歴然と示されていた。傷ついた父は、教会と一定の距離を置き始める。
後年、父の妹が自死。その葬儀を教会は拒否した。「自殺を教会が嫌った。おれが牧師の代わりに聖書を読み、自宅で執行した。屈辱だった。教会とは何かということだ。貧乏人が苦しんで死んで…。許せんて思った。ますます教会から遠ざかった」。父はせき込みながら私に語った。教会、信仰とは何か。
青年期は共産主義に希望を見いだした父だが、傍らには終生、聖書を置いていた。作品群の中にもキリスト教的なイメージが見え隠れする個所がある。父は「偽りのない真実なる信仰」へのあこがれを抱き続けていたのかもしれない。
そして、そのキリスト教の地アメリカが、長崎の空から、同じ信者を含む人々の頭上に原爆を落としたという事実がある。一九七四年、父は浦上で、足元の地層に原爆犠牲者の大量の骨を感じながら次の詩を書いた。
<この地に/信ずる神と共に在りつづけた人びとの/生は/虐殺/異教徒でなく/同じ信ずる者たちの手にかかり絶える苦しみは/消えたであろうか>(「小峰町交叉点にて」抜粋)
父は「同じ信ずる者たちの手」によって落とされた原爆で、命を奪われたキリスト教信者たちの無念の死にも、複雑なこだわりをもって、詩で寄り添った。