貧困下 自死した妹想う
<妹よ/今日は何故(なぜ)かおまえのことが想(おも)はれる/おまえが生きて在(あ)れば/もういくつの歳(とし)になっていたのだろう/さらにそのことを問うまい/わたしは歩道橋のうえに一人佇(た)っている>(「歩道橋」抜粋)
西彼長与町から諫早市に転居した一九九〇年の作。父山田かんは、住み慣れぬ街で亡き妹〓子(ゆうこ)に語り掛けている。共に被爆し、浦上で惨状を目撃した妹は戦後、自ら命を絶った。
父は四人きょうだいの長男。二歳下の〓子は二女で産みの母は戦前に病死した。キリスト教プロテスタント信者の祖父は同じ教会の信者と再婚し、最終的に父は八人きょうだいとなる。
一九四八年七月、祖父は四十七歳の時に長崎市内で誤って川に転落、水死する。八人の子どもと病弱な継母は、いきなり極貧生活に陥った。
進学希望だった県立長崎高三年の父は、自主退学を余儀なくされ、夜間部に通いながら県立長崎図書館の出納手となり、活水高一年の妹は文具店に就職した。だが、若い二人の収入では、毎日の米さえ足りなかった。
「社会を変えるしかない」。父は約一年間、共産党活動に没頭。夜の細胞(基礎組織)会議やビラ張りに走り回る一方、詩作に本腰を入れ始めた。
「兄ちゃん、よか詩ば書いて」。父を明るく励ましていた妹は、以前からくすぶっていた継母との確執を徐々に深めた。貧困の状況下で、好きな人との付き合いも継母に止められた。やがて弟らが学齢に達するにつれ、家庭の収支は均衡が崩れ、妹の表情は暗くなっていった。
<妹が母から叱(しか)られた/百匁(もんめ)五円の人参(にんじん)と云(い)ったのに/妹が母から叱られた/そんな買物ぢゃ/破産する//驢馬(ろば)の耳のような/可愛(かわい)い人参わ/今宵(こよい)小粒にきざまれて/宝石のように/御飯の中で光っている>(「人参」抜粋)
「兄ちゃん、横浜に行こう」。ある夜、妹が小声で持ち掛けた。何かが限界に達していた。だが長男が家族を見捨てるわけにはいかなかった。
五三年十二月、妹は失そう。翌月、佐世保郊外の日野峠で意識不明で発見された。睡眠薬を飲み、急性肺炎を併発。病院に駆け付けた父が見守る中、二十一歳の生涯を閉じた。遺書はなかった。
被爆し、戦後復興の陰で貧苦のどん底にもがき、信仰にもすがれず逝った妹。父は悔恨の情を詩にぶつけ、がり版刷りの第一詩集「いのちの火」を発行。その後も図書館員として働き、年の離れた弟らを育て上げた。
「なんかいつも悲惨な結末に終わる」。昨年末、父は私にぽつりとつぶやいた。父の一番の理解者だった妹を守れなかった慚愧(ざんき)の念を引きずっていた。晩年も時折、酒に酔っては涙をぬぐった。父はおそらく、原爆に加えて、妹の自死の記憶もまた、風化させないよう己に課していたのではないか。
【編注】〓は「おうへん」に「秀」