むごい記憶に子の姿重ね
<根かたには/はいずり逃げる 幼童の/かたち/跳ねあげた四肢/生きたいせめぎ>(「樹Ⅰ」抜粋)
父山田かんによると、私の祖父好雄は開戦時、「やるぞやるぞ」と興奮していたそうだ。だが、被爆直後の路上で幼児の焼死体を見たとき「誰がこんがん戦争ば始めたとか」と泣き叫んだ。傍らにいた少年時代の父は「あんたたち大人が始めたとやろうが。今ごろ叫んでも仕方なか」と心の中で思ったという。
父は「おやじの叫びは戦争に加担した大人としての自覚がない」と厳しかった。だが「おやじは幼児の焼死体を見て、疎開先の幼いわが子の姿を思い出し、突き上げてくるものに耐えきれなかったんだろう」と思いをくんだ。
軍国主義が覆う時代、開戦を肯定した祖父は、わが子への愛情に揺さぶられ一瞬、正気に戻ったのかもしれない。
父に再度、当時の情景を尋ねると、即座に次の詩を挙げた。
<うでやあしをつきあげている/まっくろけのひとのうでにすがって/このとけいはとうちゃんだよう/ちゃんだよう/と ぜっきょうするのをききました/こえは まっくろのげんやを/きりさいてひびいていきました>(「ウデウデ時計」抜粋)
黒焦げの親を、腕時計を頼りに捜し当てた子どもの姿。犠牲者一人ひとりに人生があり、家族と暮らした日々があった。民衆のそれぞれの「時」を突然止めた戦争と原爆の残虐性こそ、父はまず許せなかったのだろう。
そして、生き続ける者の腕時計は確実に時を刻む。父は若いころから、年月の経過の中でどのような姿勢で原爆をとらえ続けるべきか模索していた。私が五歳、兄直己が八歳の時、次のように書いている。
<そして、今、ぼくにも子供があり、あの幼童の年齢に達してきたが、新しい多くの生命たちを、被爆地点で逃げるかたちのままに焼き殺されたあの子の姿の上に重ね合わせていくことで、つねにそうする内的行為のうえで、永久に風化することのないとり返しのできない瞬間を定着させていきたい>(「長崎被爆二十五年の視点」抜粋)
幼児の遺体の記憶にわが子らの姿を重ね、日常の中で反復し、原爆を幾度もとらえ直そうとする内的行為は、精神的苦痛を伴ったはずだ。
少年のころの私が、詩集を「難解で重苦しい」と感じて本箱に戻したころ、父は狭い書斎で原爆と対峙(たいじ)していた。私の母和子(69)は「一日中、書斎に座りっきりで一行も書けないこともあった。詩を一つ仕上げると体重が一キロぐらい落ちるほど苦しんで書いていた」と回想する。
原爆への怒りを持続、増幅させ、妥協のない詩作を追求した生き方は壮絶だった。だが、決して家庭的ではなかった父の独自の戦いを、私自身が理解し始めたのは比較的最近のことである。