生涯かけ原爆凝視
詩人の山田かん(本名・山田寛)が六月八日、諫早市内の病院で息を引き取った。七十二歳だった。五十八年前の八月九日、旧制長崎中三年の十四歳の時、長崎市下西山町の自宅で妹と被爆。以来、原爆による殺りくの実情を凝視するとともに、詩やエッセーを通して最期まで原爆や社会の不条理を告発し続けた。昨年末、息子として詩作の原点を直接聞いておこうと、出生から被爆、戦後の体験までを取材していた。息子の目で父山田かんの生きた軌跡をたどり、メッセージの意味を考える。
今年五月上旬に見舞った時、父は胃が一切の飲食物を受け付けず、やせ細っていた。
「来たとね」。「まあね。父さんはどうね」
素っ気ない親子の会話だった。帰り際、父の詩が取材先で話題になったことを思い出した。
島原市内の女性が、父が主宰した詩誌「草土」最新号の一編を丸暗記していた。
<真の正義というものはな/いつも民衆の難儀のなかにこそ潜む/ということを忘れるなよ>(「現実の架空」抜粋)
「女性は(この詩に)勇気をもらっていると言っていたよ」と伝えると、父は「へえそうね。そんがんこともあっとばいねえ」とベッドの上で照れた。私が見た最後の父の姿だった。
一カ月後、臨終の知らせを受けた。
家庭では普段、寡黙な人だった。私が子どものころ、父は時間があれば西彼長与町の自宅の狭い書斎で読書か執筆に没頭し、吸い殻のたまった灰皿から紫煙を立ち上らせていた。
しかし、食卓でウイスキーや焼酎を飲み始めると、ささいなことでしばしば怒りだした。私は突然の変ぼうを理解できず、近寄り難かった。父を知りたいという気持ちから、詩集を読んでみようと何度か試みたことがあったが、難解で重苦しいイメージが残った。
三十年前、「冬の時代である。不安は生存のあらゆる面に亘(わた)って拡(ひろ)がりつづける。詩はこの凍土のうえで書かれる意味を問われている」(詩誌「炮氓(ほうぼう)」二十九号)と記した。四年前のがん発見後、「もう一度、己(おの)れと詩とのたたかいを始めよう」(詩誌「草土」二十七号)と決意した父。
穏やかな死に顔を前にして、文学の可能性を信じ、民衆の立場で原爆を見据えようとした父の生きざまを思った。