女たちの佐世保空襲
 =私の6・31= 下

当時のアルバムを見ながら空襲体験を語る西尾さん(右)と馬郡さん=佐世保市山手町、西尾さんの自宅

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女たちの佐世保空襲 =私の6・31= 下 具体的情報 何一つなく 西尾房子さん(76) 佐世保市山手町 馬郡 薫さん(75) 同市藤原町

2003/06/28 掲載

女たちの佐世保空襲
 =私の6・31= 下

当時のアルバムを見ながら空襲体験を語る西尾さん(右)と馬郡さん=佐世保市山手町、西尾さんの自宅

具体的情報 何一つなく 西尾房子さん(76) 佐世保市山手町 馬郡 薫さん(75) 同市藤原町

県立佐世保高等女学校を一九四四(昭和十九)年に卒業した私と馬郡さんは、学校の推薦で佐世保海軍警備隊第一三分隊の女性雇員となり、同年四月入隊。佐世保海軍鎮守府内の巨大な地下ごうの中にあった防空指揮所で終戦まで空襲の際の情報伝達の仕事をした。

女性雇員といっても軍人と同じ。鎮守府内の兵舎で寝泊まりし、外出できるのは三日に一度。仕事の内容はおろか、どこに勤めているかも口外してはならないと厳命されていた。

佐世保空襲の当日は非番で、母の顔を見に午後八時ごろ、佐世保市今福町の自宅に帰った。いつ空襲の警戒警報が鳴るか分からないので、制服を枕元に置いて寝ていたら、飛行機の爆音と爆弾の破裂する音を聞いた。

驚いて外に出ると、頭上から焼夷(しょうい)弾が次々に落ちてくるのが見えた。「早く防空ごうに入りなさい」と言う母を振り切って、爆弾の降りしきる中、指揮所へと戻った。怖いという気持ちより「仕事に戻らなければ」という使命感の方が先だった。

空襲から数日間は家に戻れなかった。兵舎も鎮守府の建物も空襲で焼けたから、妹は私が死んだと思い、心配して鎮守府に遺体を捜しに行こうとしたと後から聞いた。(以上西尾さん)

空襲が始まったときは兵舎にいた。「シュルシュル、ポンポン」という異様な音に、窓の幕を開けて市街地を見ると、玉屋百貨店の方向から火の手が上がっているのが見えた。すぐに総員配置のブザーが鳴り、指揮所へ向かった。よほど慌てていたのか、そのとき手に持っていたのは傘と枕だった。

指揮所は混乱していた。周辺の監視所からの電話は鳴りっぱなしだったが、入ってくるのは「不明爆音」「不明機」の連絡ばかりで何一つ具体的な情報はなかった。砲台や航空部隊に連絡しても返信はなかった。通信もズタズタになっていたのだろう。

指揮所は分厚いコンクリートで覆われているから中にいると爆弾の音など何も聞こえなかった。二十九日の昼すぎになってようやく仕事を終えて外に出たとき、焼け野原になった市街地と、負傷した兵隊さんたちの姿を見てぼうぜんとした。兵舎も全焼していた。指揮所の中にいたから助かったのだと思う。

このときの体験は家族にもほとんど話していない。平和な時代になって戦争の恐ろしさ、異常さを今さらながら感じる。(以上馬郡さん)