慰霊祭開き めい福祈る 初瀬蔦枝さん(76) 佐世保市権常寺町
佐世保市立成徳高等女学校を卒業後、一九四三(昭和十八)年から佐世保海軍鎮守府の文庫に勤めた。
当時は現在の佐世保北高の下の八幡町に両親と住んでいた。空襲当日は雨が降っていたことから、こんな日に空襲はないだろうと早めに床に就いていたと思う。気が付くと照明弾で外は真昼のように明るく、焼夷(しょうい)弾がそれこそ雨のように降ってきた。
東京大空襲を経験した人から、「家が燃えて着る物がなくなり苦労した」と聞いていたので、冬物や靴下などを何枚も重ね着して外に出た。火はわが家にも回り、焼け出された下の家の人たちが消火を手伝ってくれたが、食い止めることはできなかった。六十歳になる母が軒先にぶら下げていたタマネギに付いた火を一生懸命消そうとしていたのを覚えている。食糧難の時代だったから、母も必死だったのだろう。
風呂の水で着ていた物をぬらし、石垣に掛けたはしごを上って、家の上にあった八幡小の校庭へ逃げた。校庭には児童用の防空ごうが掘ってあり、座るのがやっとの狭いごうの中で近所の人ら十一人で空襲が終わるのをじっと待った。
夜が明けると校庭にはむしろをかぶせた遺体がたくさん運ばれてきた。両親は早岐の祖母の元に身を寄せることになったが、私は両親が止めるのも聞かず、隣の軍人さんと鎮守府に出勤した。途中、焼け野原になった市街地を通ったが、どんな建物が残っていたかなどの記憶はあまりない。
文庫でも同僚ら五人が亡くなった。戦後、関係者で海軍鎮守府文庫会をつくり、六月二十九日前後の日曜日(現在は五月二十九日前後の日曜日)に福田町の等覚寺で毎年、慰霊祭を開き、めい福を祈っている。
また、自宅から焼けたボタンの根っこを掘り返して、祖母の畑に植えたら息を吹き返した。自然の生命力の強さを感じた。ボタンは今もわが家の庭で毎年、きれいな花を咲かせてくれている。
イラク戦争の報道で、戦災に遭った子どもたちの姿を見るたびに心が痛む。戦争は殺し合いだ。二度としてはならない。