女たちの佐世保空襲
 =私の6・29= 上

「いとこを戸板に乗せて病院まで運んだ」と体験を語る宮脇明子さん=佐世保市長尾町の自宅

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女たちの佐世保空襲 =私の6・29= 上 いとこの胸に爆弾破片 宮脇明子さん(77) 佐世保市長尾町

2003/06/26 掲載

女たちの佐世保空襲
 =私の6・29= 上

「いとこを戸板に乗せて病院まで運んだ」と体験を語る宮脇明子さん=佐世保市長尾町の自宅

いとこの胸に爆弾破片 宮脇明子さん(77) 佐世保市長尾町

終戦直前の一九四五(昭和二十)年六月二十八日深夜から二十九日未明にかけて、千人を超す犠牲者を出した佐世保空襲。あれから五十八年。今、空襲の実相と戦争の悲惨さ、平和の尊さを次代に伝えようと、証言や語り部活動が広がりを見せている。二十九日を前に、空襲に遭遇した四人の女性に「あの日」の体験を聞いた。

当時、私は東京女子専門学校(現東京家政大)を繰り上げ卒業し、佐世保高等裁縫女学校(現久田学園佐世保女子高)で家庭科教諭をしていた。父は軍人で関西におり、母と妹の三人暮らし。佐世保市矢岳町の自宅は建物疎開に遭い、町内の山手の空き家を借りて住んでいた。

空襲に備えて、いつでも逃げ出せるように普段着のまま防空ごうに近い場所に寝ていた。佐世保空襲があった六月二十八日の夜は、雨だったこともあり、「空襲はないだろう」と久しぶりに布団でゆっくり寝ていた。

「明ちゃん、空襲よ」。母の声で驚いて起きてみると、窓の外は敵機を照らすサーチライトや照明弾で真昼のような明るさだった。玄関に出ると、市街地から火の手が上がり、山手の方に迫ってくるのが見えた。母と妹と三人で防空ごうの中でまんじりともせず、夜を明かした。

空襲が収まり、外に出たら、近所の人が「いとこが重傷を負っている」と知らせてくれた。駆けつけてみると、いとこの胸には爆弾の破片が刺さり、虫の息だった。いとこを戸板に乗せ、治療してくれる所を探して市街地に出た。途中、消防車のハンドルを握ったまま黒焦げになっている男の人の死体を見たことをはっきり覚えている。

天満町の佐世保警察署に行ったら負傷者で満杯で断られ、佐世保川に沿って梅田町の市民病院まで運んだ。焼け落ちた建物やアスファルトから上がる熱気で、歩くのもやっと。無我夢中だったことと、「怖い」という気持ちがあったためか、当時の詳しい状況はあまり記憶がない。幸い、いとこは一命を取り留めた。

空襲後も大変だった。生徒たちの勤労動員先に行って安否を確かめたり、焼け出された親類の面倒もみた。戦後は除隊になった父の代わりに一家の大黒柱となって働いた。食糧難だったが、戦時中に野菜などの行商に来ていた小野町の農家と懇意にしていたことから、食べ物を分けてもらうことができ、ありがたかった。

あの空襲を体験し、戦争は二度と起こしてはならないと強く思う。