「この体で長生きしても、つらいだけ」 重い病状 厳しい来日
釜山市内のアパート。日も差さない四畳半ほどの一室で、広島で被爆した金潤祚(キムジュンソ)さん(75)は腰にコルセットを着け、横になっていた。ベッドはなく、床の上に薄い布団が敷かれているだけだ。
「金さん、(健康管理)手当が出るようになりますよ」。韓国人被爆者の支援に取り組む平野伸人さん(56)が二日、見舞った。
変形性脊髄(せきずい)症を患う金さんは昨年夏、広島市の病院に入院。手当の受給資格を再取得したが、帰国によって打ち切られた。その年の暮れ、日本政府は在外被爆者に手当を支給する方針に転じた。
平野さんが教えるまで、政府の方針転換を金さんは知らなかった。部屋の隅にあった大量の薬袋の間に、手当支給を伝える韓国原爆被害者協会からの手紙が埋もれていた。金さんは手紙を読んでいなかった。
「この体で長生きしても、つらいだけ」。平野さんの励ましの言葉に、金さんは寂しそうな表情を浮かべた。
被爆者健康手帳を持つ在外被爆者の中でも、重い病気を患う人にとって、受給資格を得たり、再申請したりするための来日は難しい。
坂口力厚生労働相は二月末、来日が必要な手当申請の手続きを緩和する意向を明らかにした。だが「(金さんの)問題は受給資格が切れる三年後。この状態で日本に行くのは無理。(厚労相発言は、いつ実現するのか分からず)その場しのぎに聞こえる」と平野さんは言う。
踏ん切りつかない
平野さんは、釜山市内の小さな市場にあるアパートで寝たきりの生活を送る崔李徹(チェケチョル)さん(76)も訪ねた。
長崎で被爆した崔さんは一九八二年、韓国人被爆者の渡日治療で来崎。股(こ)関節に人工関節を入れる手術を受けたが、以後二十年、一度も治療していないため、病状は悪化している。
「思い切って日本に行って手当を取り、治療をしてみませんか。応援します」。平野さんは切り出した。三カ月前に訪れた時より、崔さんの顔色がよく見えたからだ。
病気と貧困に苦しむ崔さんにとって、毎月約三万円の手当は少ない額ではないが、崔さんの妻(74)は首を横に振った。「夫の世話で仕事も辞め、収入も絶たれた。日本で治療しても、無理がたたって来年死んだらどうするのか」
平野さんが帰る間際、崔さんは「行ってみたいなあ」と絞り出すように言った。だが「娘や長崎の支援者に迷惑を掛けられない」と考える妻は、踏ん切りがつかない。