「どうやって日本に来いというのか」 困難極める被爆の証明
在外被爆者の援護問題は、韓国人被爆者が起こした裁判で健康管理手当の支給を命じる判決が相次ぎ、司法では救済の流れが確定的になった。日本政府も昨年末、手当に関しては支給する方針に転じたが、具体策はまだ見えない。「日本と同じ援護を」と声を上げる韓国人被爆者の現状をリポートする。
どこを訪ねたら…
韓国・釜山市から内陸へバスで約二時間。陜川(ハプチョン)郡にある原爆被害者福祉会館。一九九〇年に日韓両政府が合意した四十億円の基金を柱とした在韓被爆者支援策の一つとして造られ、九六年開館した。家族に恵まれず、早急な援護が必要な被爆者八十人が共同生活している。
そこで暮らすキム・ピンラムさん(86)。長崎のどこで被爆したかを正確に覚えていない。家から海が見えていたという。漢字は書けない。自分の名前も読み方しか分からない。
「北九州の門司生まれ。十八歳で結婚し、長崎にいつ行ったか、どこに住んでいたのか。ピカッと爆発した後、風が吹いてきた。何が起こったか、記憶しようとも思わなかった」
当時五、六歳だった息子が爆風で吹き飛ばされ、その時のけがが原因で右足を失ったという。朝鮮半島に戻った後、子どもの世話に追われ、原爆に遭った事実さえ忘れかけていた。
被爆者健康手帳の存在は数年前に知ったが、取得には「証人が必要」と聞かされた。「証人は捜せない。長崎のどこを訪ねたらいいのか分からない。年を取っているし、連れていく人もいない。あきらめるしかないです」。キムさんは涙をぬぐった。
この姿見てほしい
日本であれば、手帳を持つ被爆者は医療と手当の対象になる。健康管理手当に関しては、日本政府の支給方針が今年に入り、同会館にも伝わってきた。だが、孫貴達(ソンキタツ)さん(74)は喜ばない。
孫さんは広島の造船所で働いていて被爆した。手帳は持っていない。約七年前、脳内出血で倒れ左半身がまひ。昼間はずっとソファに座ったまま過ごす。「この体でどうやって日本に来いというのか。日本から調査に来て、この姿を見てほしい」。援護が必要な多くの人が、海の向こうにいる。
証人や詳細な被爆状況が分からなければ、手帳取得は難しい。韓国原爆被害者協会に加入する被爆者約二千二百人のうち、手帳未取得者は約千四百人といわれる。平均年齢は七十歳代半ば。高齢、痴ほう、病気、薄れる記憶。多くの被爆者が取得の条件を満たせそうにない。