出征体験を講話 宮木利男さん(78) =西彼外海町=
「私がいたフィリピンのネグロス島からは、三百機の飛行機が出撃しましたが、とうとう帰ってきませんでした」
「最後にはアメリカ軍に山の方へ追い詰められ、仲間は飢え死にしたり、マラリアなどの病気で死んでいきました」
長崎原爆の日の九日。西彼外海町立神浦小学校の平和学習に招かれた宮木利男さん(78)=同町神浦=は、戦時中に第六航空通信連隊の一員として出征した体験を語った。
何しろ、公の場で戦争の話をするのは初めてのこと。緊張もさることながら、子どもたちに分かりやすく伝えるのは骨が折れた。「軍隊用語はそのまま使えないし、島がどこにあるかも説明しないと」。最近始めたインターネットでネグロス島の地図を探し、印刷して説明に使った。
児童の大多数が戦争の話にじかに触れたことはない。重々しく、遠い日の出来事。人ごとと思われないか不安だった。だが講話の間、子どもたちの視線は真っすぐ自分に向いていた。
■戦友会が幕
宮木さんは終戦から五十七年にして、今を自分の「変わり目」と考える。これまでは戦友会などの活動が自分と戦争をつないできた。しかし、共有体験で結ばれる戦友会は一昨年、三十六回目を最後に活動の幕を下ろした。会員が高齢化し、全国総会に寄り集まるのが難しくなったからだ。
戦争の風化が身に染みる。だが、どこかに「今のままじゃいかん」という冷めやらぬ思いもある。「元従軍記者などが書いた戦争体験記は、継ぎはぎの話を誇張していたり、妙なドラマ仕立てだったり…。あの極限状態は何だったか、どう乗り越えたか、ありのままが伝わっていない」
■記録一冊に
戦友会活動が終わり、宮木さんは机にノートを広げることが多くなった。戦後、折に触れて書き留めた出征記録を一冊にまとめる作業だ。つい熱中すると、時計の針は午前二時を回っている。
「私が何かを変えられるわけじゃない。でも今の世の中は、戦争の痛みとか戦後の苦労が積み重なってできたことが忘れられてる。ほっておけん気持ちがある。体験記は世に出すかどうか分からないが、誰かがわが身のことのように読んでくれれば、それでいいです」
二学期に入ると、神浦小の児童から講話の感想文が届くという。宮木さんは時折、じっと話に聞き入る子どもたちの顔を思い起こしている。