引き揚げ体験 五島慶子さん(62) =長崎市=
夫にさえ何十年と話せなかった。同じ体験を持つ兄とも、当時を語り合うことはない。
旧満州奉天(現中国瀋陽市)で終戦を迎えた五島慶子さん(62)=長崎市西山台一丁目=が、引き揚げの体験を初めて人前で語ったのは、この四月のことだ。
■映画が契機
それは図らずも、長崎市内で開かれたアニメーション映画の試写会の場だった。作品は、少女が旧満州から苦難を経て日本に引き揚げるまでを描いた「えっちゃんのせんそう」。全国で自主上映の動きが広がり、本県では六月以後、九カ所で上映された。
試写会は実行委メンバーの勉強会を兼ねて開催。招かれた五島さんは試写の後、何か話すよう促された。
思い出すのがつらく、一度も話せずにいた体験だ。だが、映画の印象は強烈だった。「私とあまりにそっくりで…」。思いがけず、五歳の時の体験を語り始めていた。
五十七年前。奉天で平穏に暮らしていた五島さん一家六人は、終戦と同時に一転、身の危険にさらされた。官舎近くの建物に潜伏したが、ソ連兵に発見され、警察職員だった父は連行された。父とは、それきりだ。
終戦翌年、妊娠していた母が産んだ男児は、栄養失調で短い命を終えた。六月には、すし詰めの貨車に揺られ続け、旅順に近い港から船で帰国。無理が続いた母は入退院を繰り返し、終戦から十六年後、世を去った。
今も鮮明に覚えている。日ごとに弱る赤ん坊に「泣き声が小さくなったね」とうつろにつぶやく母の声を。奉天に望郷の念は抱けない。「私には古里がないんです」
二年前に公務員を退職後、戦争について考えることが増えた。米国のテロへの報復には、戦争の犠牲をものともしない高慢さを感じる。心身ともにボロボロになって死んだ母の存在を軽んじるようで、許せない。
■乏しい記録
「体験を語れば涙が出るけれど、語らなければ、父や母の人生が無意味になってしまうのでは」。最近、こう自問する。本土が襲われた原爆や空襲に比べ、記録が乏しい引き揚げ者の体験。それぞれの記憶をどう形にするか。「私たちも語り継ぐ時期にきている。もうあまり時間がない」
引き揚げ以来、一度も行かなかった中国を、来年には訪れてみるつもりだ。「瀋陽で何か見つかるかもしれない」。五十七年間の空白を今、埋めようとしている。