消えゆく慰霊祭 旧海軍特四式襲撃隊員 中嶋政則さん(80) =佐世保市=
「終戦の日」が近づいてきた。戦争体験者の高齢化は進み、活動が途絶えつつある戦友会や遺族会も少なくない。戦争を語り継ぐのは、もはや、体験者一人ひとりとも言える。戦後五十七年。米国はテロへの「報復」を大義に軍事行動を展開し、日本はそれを支援している。消えゆく戦争の記憶と、語り手として今、動きだした人たちを紹介する。
1人になっても平和祈る
「特四式襲撃隊員之碑」―。月一回、佐世保市宮地町の光輪院にある碑の前に、中嶋政則さん(80)=同市庵浦町=はやってくる。全国で数人だけになった旧日本海軍特攻隊員の生き残りだ。
部隊は太平洋戦争末期、極秘に編成され、通称「Z隊」と呼ばれた。戦車型の水陸両用車両に魚雷と自爆用の爆弾を積んだ「特四式内火艇」による特攻が任務だった。
「私は命に縁がある男ですよ」。中嶋さんは記憶をたどり始めた。
■遺書は3度
一九四三年八月。内火艇を収容した二隻の輸送船は、山口県岩国沖からフィリピンへ出撃した。一隻は南方海域で撃沈。中嶋さんが乗ったもう一隻は、五島沖で座礁し佐世保にえい航された。
Z隊六十人は次の出撃まで、光輪院に寄宿。その後、移動先の鹿児島県志布志で、四五年の「八月十五日」を迎えた。
終戦直後、中嶋さんの心はざわついていた。戦争体験があまりにも鮮烈だったからだ。
出撃の日。待機所で宮司が祈とうした。命ではなく「無事、敵陣に体当たりできますよう」。そう感じた。しかしそれも三度目。二回は派兵直前に部隊から外された。よって「遺書は三度書いた」と言う。
戦後十年ぐらいたって、戦友の慰霊を思い立った。場所は、光輪院。軽自動車を運転して、ひとり同院に通った。
■戦友捜して
「秘密部隊だったから手掛かりがない」。佐世保、横須賀、呉の各鎮守府から選ばれた兵員の名簿はなかった。数人と戦友捜しを始め、七〇年代に約五十人の全国組織ができた。慰霊祭は「五月二十七日」に決めた。
八二年には慰霊碑を建てた。そのころまでは毎年四十人近くが集まった。しかし九〇年代半ばを過ぎ、病気や高齢化で欠席が目立ち始めた。昨年は三人。今年は徳島県の元隊員(90)と二人。
Z隊の寄宿当時、中学生だった有森信隆前住職(72)は「消えゆく慰霊祭」とつぶやいた。
中嶋さんは戦後、同市が運営する観光船の機関長として、西海国立公園九十九島を遊覧した。
「戦時中は死体を臭いとは思わなかった。それが普通だった」。そして今。「日本は豊か。ぜいたくざんまいを当たり前と思う世の中は、戦時と中身は変わらない」
中嶋さんは最後の一人になったとしても、平和を祈る、と言った。